彫刻の会場のメイン作品展示場所で一際凛とした輝きを放っていた作品が「太宰治」像であった。太宰の身長は高いほうであったようだが、実際より大きくした約2メートル超えの身長で二重マントをはおる姿、顔の彫り深く精悍さある表情で俯きがちに想いにふけるシチュエーションに、観るものを釘付けにするオーラがあった。しかし、今なぜ太宰治なのかという思いもあり、作家と太宰の繋がりを調べてみた。太宰治は1909年、青森県北津軽郡金木村(現、五所川原市)に豪農・大地主の六男として生まれた。本名は津島修治。周知のとおり太宰と言えば、子供の頃に読んだ「走れメロス」、そして思春期に繰り返し読み返した「斜陽」「人間失格」を思い浮かべる。年少の頃より多感で繊細な心を持つに至った太宰は、豪農に生まれた自分の環境が人々の犠牲の上にあることを知り、自身の存在に常に劣等感を持った。東京帝国大学に入学するが、放蕩に明け暮れ家から勘当を言い渡される。その劣等感がマルキシズムへと傾倒させていくのだが、その思想の虜にはならなかったようで、小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。が、太宰の残した多くの小説は、プロレタリアート的な思想小説や単なる娯楽、空想物語ではなく、「人は何故に生きるのか」という彼の世間に対する疑問、問いかけであることがわかる。39年の生涯で4回の自殺未遂を繰り返しながら、小説を執筆してきた太宰が、これまで犯してきた自分の恥の総決算として最後に取りかかったのが「人間失格」である。その脱稿の約1ヶ月後、愛人の山崎富栄とともに玉川に入水心中し、自らの命を絶った。晋也氏は、学生時代その玉川上水の近くに下宿しており、氏にとっても太宰は思い出深い人だと言う。「太宰生誕100年記念(2009年6月19日)」で、五所川原市から太宰の銅像制作を依頼された折り一つ返事で快諾した作品がある。実は今作の姉妹作とも言えるもので、入水心中する数年程前の三鷹の自宅付近を散歩している写真の姿を参考にモティーフとしている。帰郷の思いで生家を見つめる記念作から、僅かに首を傾げ視線を落とすことで、人間「太宰治」の内面を見事に捉えた作品となった。(松)太宰 治 221×87×60㎝
彫刻の会場のメイン作品展示場所で一際凛とした輝きを放っていた作品が「太宰治」像であった。太宰の身長は高いほうであったようだが、実際より大きくした約2メートル超えの身長で二重マントをはおる姿、顔の彫り深く精悍さある表情で俯きがちに想いにふけるシチュエーションに、観るものを釘付けにするオーラがあった。しかし、今なぜ太宰治なのかという思いもあり、作家と太宰の繋がりを調べてみた。
太宰治は1909年、青森県北津軽郡金木村(現、五所川原市)に豪農・大地主の六男として生まれた。本名は津島修治。周知のとおり太宰と言えば、子供の頃に読んだ「走れメロス」、そして思春期に繰り返し読み返した「斜陽」「人間失格」を思い浮かべる。年少の頃より多感で繊細な心を持つに至った太宰は、豪農に生まれた自分の環境が人々の犠牲の上にあることを知り、自身の存在に常に劣等感を持った。東京帝国大学に入学するが、放蕩に明け暮れ家から勘当を言い渡される。その劣等感がマルキシズムへと傾倒させていくのだが、その思想の虜にはならなかったようで、小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。が、太宰の残した多くの小説は、プロレタリアート的な思想小説や単なる娯楽、空想物語ではなく、「人は何故に生きるのか」という彼の世間に対する疑問、問いかけであることがわかる。39年の生涯で4回の自殺未遂を繰り返しながら、小説を執筆してきた太宰が、これまで犯してきた自分の恥の総決算として最後に取りかかったのが「人間失格」である。その脱稿の約1ヶ月後、愛人の山崎富栄とともに玉川に入水心中し、自らの命を絶った。
晋也氏は、学生時代その玉川上水の近くに下宿しており、氏にとっても太宰は思い出深い人だと言う。
「太宰生誕100年記念(2009年6月19日)」で、五所川原市から太宰の銅像制作を依頼された折り一つ返事で快諾した作品がある。実は今作の姉妹作とも言えるもので、入水心中する数年程前の三鷹の自宅付近を散歩している写真の姿を参考にモティーフとしている。
帰郷の思いで生家を見つめる記念作から、僅かに首を傾げ視線を落とすことで、人間「太宰治」の内面を見事に捉えた作品となった。(松)
太宰 治 221×87×60㎝