書人探訪21 −出会いの旅− 総 論 4 文・田宮文平


  この「昭和二桁世代の書人論」の執筆を60名限定、5年間の予定で執筆をはじめたのは、平成13年(2001)1月からであった。二一世紀の新世代書人の動態を明らかにする目的であった。  
 昭和二桁ということは、もっとも年長の人が、昭和一〇年(一九三五)生まれということになる。執筆をはじめた平成12年(2001)の時点で六六歳である。従って、この世代が書壇的に名が知られるようになるのは、早くて昭和三〇年代の後半からである。しかし、書学をこころざす年代となればもう少し早く、昭和30年(1955)前後からということになるだろうか。  
  書人として学ぶべき古典学書の方法論は、昭和戦前期と基本的に変わらないが、その他の状況は大きく変貌した。書人養成の一つの柱であった師範学校は新制大学となり、文検制度は廃止された。それに何より進学率が大幅に向上し、新世代書人の大半は大学卒である。小学卒から苦学して文検を目指す時代ではなくなったのである。  
  これがどういうことを意味するかというと、書学以外に一般教養を身につけた人が圧倒的に多くなったということでもある。そのぶん、天才型や奇人型の書人が少なくなったとも言える。  
  また、昭和戦前期まで書人の登竜門であった競書雑誌の地位は、相対的に低下した。これに代わって圧倒的な地位 を占めるようになったのが、日展、毎日書道展を頂点とする公募書展である(今日では、これに読売書法展、産経国際書展も加わるが、読売書法展は、いわば、毎日書道展が二分して誕生したのだから、昭和書道史としては当時、日展、毎日書道展のいずれかを目指して、みな勉強したのである)。  
  書塾は、第二次大戦後、占領軍によって一時、学校の毛筆習字が廃止されたのにかかわらず殷賑を極め、書人の生活基盤となった。また、プロ書家のレベルで考察しても大学在学中、あるいは卒業後に書塾に拠る人が圧倒的に多く、公募書展を基軸とする書壇の人脈を形成した。  日本画では、かつて塾系は技術レベルが高く、美校系は美学美術史など全体像としての美意識が優れていると言われたものだが、今日ではそれも薄れたのではないだろうか。書においても塾系は技術は高いが、書学書道史などの教養が低いと言われたものだが、いまでは、そんなことも言われなくなった。大学卒が過半を占めるようになり、その人たちが書塾に拠っているのだから当然であろう。  
  わたしの子供のころは、正規の大学教育を受けたのは尾上柴舟、西川寧ぐらいのものであったのだから、まさに隔世の感がある。    

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  昭和戦前期までの書は、漢字書が優位であった。かな書はともすれば一段も二段も低く見られたし、極端な場合は篆、隷、楷、行、草、かなとして六分の一の地位 などとも言われた。篆刻も河井懿廬、西川寧などの努力で、泰東書道院展や東方書道会展などに漸く部門が開かれたが、篆刻で生活が成り立つなどということは例外中の例外であった。  それが、昭和二桁世代の第二次大戦後においては、まったく状況が変わったのである。それは単に書自体というより社会や美術のあり方が根本から相異したからである。  
  かつて画人や書人の多くは、教養階級の出身であった。書で言えば、漢字系なら漢詩漢文が読め、かな系でも万葉・古今を変体かなを交じえても理解できる人がほとんどであった。書も美術も一部のエリートのものであった。  それが、戦後、一気に大衆社会へと変貌した。進学率の向上で識字率は、ほとんど100%になった。美術全体の環境も国内中心から国外へと地球規模に開放されることになった。  
  これに従って、書展の部門も戦前までの漢字、かな、篆刻の三部門から近代詩文書(調和体)、少字数書(大字書)、前衛書(墨象)刻字など、一気に多様化した。学書の基礎は漢字、かな系とも古典中心であったとしても、そのうえでのジャンル選択の幅は格段に広くなったのである。    

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  さらに戦後の国際的に開かれた社会は、書を一挙にグローバルなものとした。加えて運輸、通 信手段の発達は、これに一層拍車をかけた。  
  前衛書(墨象)、少字数書(大字書)が世界的に注目をあつめるのも抽象表現主義の流行と無縁ではない。手島右卿『崩壊』、井上有一『愚徹』が、昭和32年(1957)のサンパウロ・ビエンナーレで喝采を浴びるのも、戦後の書の象徴的な出来事である。  わたしは、昭和二桁世代の書人をモダンアート、モダン・ジャズの洗礼を受けた世代とよく譬えるが、一つうえの漢詩漢文の世代とは明らかに美意識が異なるのである。この人たちは書を美術と同次元で見ることができる。なぜなら、この世代にとっては書は美術なのだから。  

 第二次大戦後、書の母国中国との交流は暫く閉されていた。そのぶん逆に欧米との交流が盛んであったのだが、昭和33年(1958)に日中文化交流協会(会長片山哲、理事長中島健蔵氏)の斡旋で第一回日本書道代表団(団長豊道春海)が訪中してより中国との往来が次第に盛んになった。それは、人と人、人と書の友好促進であると同時に、書の古典資料を大量 に招来したのである。特に考古学の進展は、王羲之以前の古代文字資料の発掘発見をもたらし、書の古典体系も三千数百年以前にまで広がったのである。これを全面 的に享受したのが、昭和二桁世代の書人である。この世代に篆書系、隷書系の文字を書く人が極めて多くなったのは、その成果 である。篆刻家もその恩恵を最大限に受けた。  一方、かな系の人にとっても古筆体系が、大衆レベルにまで公開され、安価に提供されるようになったのは、昭和二桁世代になってからである。  こうした学書環境の変貌からも、昭和二桁世代の書学が、それ以前の書人とは大きく異なり、その結果 として生まれるこの世代の書が新たな可能性を秘めているのは当然であろう。    

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  書をめぐる状況の変化は、昭和二桁世代にとって如上のごとくであるが、この人たちは、二四時間、書の世界だけに生きているわけではない。  
  文字を書くことを巡る社会状況も毛筆オンリーからマジック・インクをはじめとする多様な筆記具へと移り、さらにはコンピュータ時代に至って、「書く」ことから「打つ」ことへと変化している。わたしたちの文明が「文字を書く」ことから成り立ってきたとすれば、東アジアではその中心に存在したのは「書」であった。しかし、IT社会の到来は、書き文字文明から機械文字文明へと移りつつある。そこでは文字はすでに「書」ではなく、伝達の手段としての単なる「記号」であろう。  
  わたしたちは、いま、このような状況のなかで、「書く」ことの文明史的な意義を問われているとも言える。  この書き文字文明と、機械文字文明の双方を熟すことのできるのが、昭和二桁世代の書人なのである。このような移行期に存在することは、それ以前の書人にも、今後の書人にもあり得ないことなのである。そのような意味において、昭和二桁世代の書人が、どのような役割を果 たすかによって、これからの書芸術の方向が決まって来ると言っても過言ではない。それだけに歴史意識の重要性を改めて喚起したいとおもう。(了)

―神戸全美20周年企画記念展―
明日への夢展
「美を継ぐ者たち」・ 「昭和二桁世代の『現代書家』の素顔」
■6月22日(木)〜25日(日) ■兵庫県立美術館王子分館 原田の森ギャラリー(2階本館、西館)

 

 

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