書人探訪21 −出会いの旅− 総 論 3 文・田宮文平


 書家がプロフェッショナルとして成り立つためには、社会的なコンベンションが必要であろう。江戸時代には、その一つのかたちとして祐筆が存在した。  
 それが、近代においては官公庁、会社にはどこでも揮毫係を必要とした。それに教師、書塾の指導者もプロフェッショナルである。  
  そのための養成機関として師範学校、文部省習字科検定試験(文検)、民間の書塾、競書雑誌などが大きな役割を果 した。  
  師範学校では、東京高等師範、広島高等師範などは別格として、通常は小学校の教員免許にとどまった。旧制中学や師範学校で書道を教えるためには、文検に合格する必要があった。この文検は、地方における予備試験と、中央における本試験とがあり、最終的な合格者は、年間数十名という厳しいものであった。すなわち、県単位 で見れば各県で一名ないし二名の合格者である。  
  この文検受験に備えての講習録や和漢の書道史、また、それとの関連で続々と発刊されたのが、競書雑誌である。大正世代の書人が、創刊した競書雑誌には、たとえば、つぎのようなものがある。  

『不律』(長谷川流石)  
『群鵞』(巌田鶴皐)  
『書海』(松本芳翠)  
『書之研究』(川谷尚亭)  
『書壇』(Z田苞竹)  
『書鑑』(辻本史邑)  
『書學』(黒木拝石)  
『なにはづ』(神郡晩秋)  
『かなとうた』(安東聖   空、桑田笹舟)  

  また、これらに先行するものとして  

『筆之友』(会頭巌谷一六)  
『書勢』(会頭日下部鳴鶴)  
『書道及畫道』(主幹井   土霊山)  
『斯華の友』(主幹小野   鵞堂)

なども存在した。新世代の書人たちは、これらの競書雑誌で互の存在を知り、腕を競ったのであった。たとえば、『筆之友』の特待生の川谷尚亭、Z田苞竹、松本芳翠、辻本(旧姓Z田)史邑など、あい見える前からその名を知り、その後の書壇の形成にも連帯感を抱いたのである。  
  今日、西高東低などと言われるほど、いまや、関西のかなは盛んであるが、その原動力となったのは安東聖空、桑田笹舟らの文検指導の成果 と言っても過言ではないであろう。文検受験の学習の方法論が、理論とともに極めて実践的であったことの成果 であり、それはそのまま、現在の関西のかなに引きつがれているとも言える。  漢字系では、川谷尚亭の『書之研究』、辻本史邑『書鑑』、それから時代はやや下るが、藤田讃陽の『紫雲』なども、文検の指導に熱心な雑誌であった。     

                    ◇    ◇  
明治期になって西欧からアーティストの概念が招来するが、書家も大正世代あたりからそのような意識を持つようになる。そして、それはやがて職能的な書道団体へと発展するのである。  
  その嚆矢ともいうべきものが、大正一三年(一九二四)に成立した日本書道作振会である。それ以前にも幾つかの書道団体が存在したが、いずれも同好会的であったり、同窓会的なものであった。その点、日本書道作振会は、各派が集まり、公募制を採用して近代的な意味での書道団体の面 目を確立した。  
  この日本書道作振会の創設には、豊道春海が重要な役割を果たすが、それは、ひょんなことからであった。  大正11年(1922)に第一次世界大戦の終結を記念して、平和博覧会が開かれる。それに書道も参加することになったが、当初、美術部門であったものが、なぜか途中から教育学芸部門に変更された。簡単に言えば、子供たちと一緒である。それに怒って有力者を集める日本書道会は、平和博への不参加を決定したのであった。  
  これに一人反乱をおこしたのが、中堅幹部の豊道春海で、「何にしても折角、国が開く博覧会に参加しない手はない」と、新世代の書人を説いて廻わったのである。  
  実は、豊道春海は、大正3年(1914)の大正博で、尾上柴舟、加藤旭嶺とともに最高賞の銀牌に選ばれて、書壇に劇的なデビューをした。それだけに博覧会に対するおもい入れが、一際強かったのかもしれない。その結果 、   

金牌 松本芳翠   
銀牌 大野百錬   
銅牌 佐分移山、相澤春洋、吉田苞竹、高塚竹堂、辻本史邑

らの新世代が大挙して進出して、平和博の書は大成功を収めた。  
これに気をよくした豊道春海は、大正13年(1924)、関東大震災後の精神作興の詔勅を受けて書壇の大同団結を計り、日本書道作振会の結成へと漕ぎつけるのである。  第1回展は、大正14年(1925)に東京上野の日本美術協会で開いたが、第2回展は、新築の東京府美術館に移って、今日の書展への体裁を整えたのであった。    

                     ◇    ◇  

 日本書道作振会は、ときの大物の大木遠Z伯爵を会長に戴くなど、豊道春海苦心の大同団結であったが、日下部鳴鶴系の″山の手派″、西川春洞系の ″下町派″に象徴されるように氏も育ちも異なった。″山の手派″は、古典学書の方法論を早くに確立して、教職につく人も多かった。これに対して ″下町派″は、書塾系が多く、それだけに師風相伝の傾向があった。これらが一緒に書展を開けば、審査などで意見が対立するのは当然であろう。書家の育ち方としても、そもそもタイプが異なるのである。  
  それで、一度は日本書道作振会に大同団結したが、昭和戦前期の書道団体は大きくは、つぎの四つに分派したのである。   
泰東書道院   
東方書道会   
大日本書道院   
三楽書道会  

  日本書道作振会が第3回展を終ったあとの昭和3年(1928)1月、川谷尚亭、Z田苞竹、高塚竹堂、鈴木翠軒らの新世代がクーデターをおこし、戌辰書道会を結成したが、再び縒りを戻して誕生したのが泰東書道院である。当初、西川寧、柳田泰麓、高塚竹堂、松本芳翠、Z田苞竹、長谷川流石らの新世代にバトンタッチするかに見えたが、豊道春海の主導権は変わらず、結局、かなの尾上柴舟を含めての体制で財団法人化される。  
  東方書道会は、泰東書道院の運営に納得しない長谷川流石、Z田苞竹、高塚竹堂、辻本史色、黒木拝石、松本芳翠、柳田泰雲ら新世代が、昭和7年(19321月に河井懿廬、仁賀保香城らを顧問に担いで結成した書団体。日下部鳴鶴系の古典学書の方法論を信奉し大作主義、習錬主義を標榜した。  
  大日本書道院は、同じく日下部鳴鶴系でも新しい考えを持つ比田井天来周辺の人たちによって、昭和12年(1937)に結成された。田代秋鶴、上田桑鳩、手島右卿、藤本竹香、大澤雅休、桑原翠邦、金子亭らが中心で、第二次大戦後の現代書の源流ともなった。  
  三楽書道会は、若海方舟というコーディネイターを得て、磯野学申、中村素堂、若い人では飯島春敬、林龍峡を擁した。  
  これら昭和戦前期の四大団体にまでに達すると、漸く、本書のテーマである昭和二桁世代とのつながりが見えてくるのである。 (つづく)

―神戸全美20周年企画記念展―
明日への夢展
「美を継ぐ者たち」・ 「昭和二桁世代の『現代書家』の素顔」
■6月22日(木)〜25日(日) ■兵庫県立美術館王子分館 原田の森ギャラリー(2階本館、西館)

 

 

top
書人探訪