書人探訪21 −出会いの旅− 総 論 2 文・田宮文平



 毛筆が、ほとんど唯一の筆記具であった時代には知識階級、教養階級には、おのずと能筆の人が生まれた。王羲之や顔真 、あるいは空海や藤原行成等は、今日、専ら書で評価されることが多いが、本来の職分は政治家であったり、宗教家であった。魏文帝は、「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と言ったが、経国の大業はともかく、書も不朽の盛事であることは間違いない。だからこそ、名筆が貴重なものとして今日に伝えられてきたのである。  
  そうした歴史的な経緯から能筆と書家との境界線が紛らわしいが、職業としての書家という概念で括ってみれば、やゝはっきりしてくるかとおもう。  
  そうした観点から考えると、わが国では、古代の写経生などが、その先駆なのかもしれないが、やはり、流儀を伝承した青蓮院流(御家流)などを源流とすることが妥当ではないだろうか。そこから祐筆という職業が生まれてくる。  職業としての書家が誕生するには、社会背景や、書作の方法論、指導理念が必要であろう。江戸期の細井広沢や市河米庵、巻菱湖などは、これらの条件に適う人たちである。    
                      ◇          ◇  
  しかし、明治開国を迎えると、西欧的な意味でのアーティストの概念がもちこまれる。過渡期のこととして、日下部鳴鶴、西川春洞世代が、それをどこまで意識していたかは分からないが、比田井天来、川谷尚亭、Z田苞竹、尾上柴舟世代になれば、書家としての自覚は明瞭である。  
  そして、日下部鳴鶴、西川春洞世代によって、今日の書家の系譜が形成されるのである。それで、近代の書道史は、専らその系譜によって説かれることが多いが、明治、大正、昭和戦前期までは依然、毛筆の存在が大きかったから能筆の系譜は、なお、続いたのである。西郷南洲、伊藤春畝(博文)、副島蒼海などの政治家や、夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子らの文学者の書は当然、近代書道史に包含されるべきものである。  
  しかし、二一世紀のコンピュータ社会においては、能筆の系譜は基本的に存在しえないであろう。もはや、毛筆が筆記具の中心ではなくなるからである。二一世紀以降の書を支えるのは、書を専門的に勉強した人、すなわち、書家に限られる可能性が極めて高いと言える。    
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 日下部鳴鶴、中林梧竹、西川春洞世代は、書を学ぶにあたって、流儀ではなく、漢魏六朝の古典によるべきことを意識しはじめる。その先駆としては貫名菘翁等の存在がないわけではないが、一般 に広く普及するのは、これらの明治世代からと言ってよいであろう。  
  日下部鳴鶴や巌谷一六のように明治新政府に関わった人たちは、旧来の御家流ではなく、新しい時代にふさわしい書風を求めていた。これらの人びとは当初、いわば和様の系譜である御家流ではなく、中国の宋、元、明の書の影響を受けた唐様をもって、これに代えようとしたのである。  そんなところへ明治13年(1880)、清国公使何如璋の招きで楊守敬が来日し、わが国の近代の書に革命をおこすのである。  
  楊守敬の本来の目的は、中国ではすでに失われてしまった漢籍が、日本には多数存在していて、それを蒐集することであった。しかし、非常に幸いであったのは、金石学者でもあった楊守敬が、一万点余とも言われる尨大な碑版法帖類を携行してきたことであった。  
  これを伝え聞いた日下部鳴鶴、巌谷一六、松田雪柯らは、たびたび、楊守敬を尋ねて、清朝書学の成果 を問うのである。  中国でも明朝までは、其本的に書学の中心は王羲之である。しかし、清朝の実証主義は書学にもおよび、コピーにコピーを重ねた伝承の法帖の書に代わって、金石の書を重視すべきことが提唱されるのである。金属や石に刻された資料のほうが、法帖類より実証性が高いというわけである。  碑学派(金石書派)の祖とも言われる中国乾隆期の阮元は、泰山や雲峰山等の古碑を訪ねて、やがて『南北書派論』や『北碑南帖論』を発表し、形骸化した南朝の王羲之中心の法帖よりも実証性の高い北朝の碑版を重視すべきことを主張したのであった。  
  これを端緒として清朝の書学は、大いに実証性を高めた。楊守敬がもたらしたものも、そうした清朝書学の成果 であった。ここにおいて、日下部鳴鶴らの明治世代は、はじめて古代から近代に至る広大な書の歴史に目覚めることになる。  楊守敬は、実技的には廻腕法によって北碑を学ぶことをすすめたので、鄭羲下碑などを学ぶことが流行し、北朝の書への関心が大いに高まった。  
  日下部鳴鶴は、楷書では鄭道昭、行書では蘭亭叙、草書では書譜、隷書では張遷碑などを基本とするよう推奨した。ここにおいて、はじめて古典による学書の方法論が成立したと言えるのである。    
                     ◇            ◇  
  この日下部鳴鶴、中林梧竹、西川春洞らの明治世代を引きついで、わが国の書学を一層体系化したのが、漢字では比田井天来、川谷尚亭、Z田苞竹、かなでは尾上柴舟らの大正世代であった。  
  比田井天来は、学書が師風伝承ではなく、古典によるべきことを明確にして、資産家でもあったから、いわゆる書道教授などは行わなかった。それで中国古典の蒐集、研究につとめ、古典学書の普及のために古碑法帖の出版と、誰も自由に書が学べる書学院(鎌倉、東京代々木)の開設を目指したのである。  
  しかし、現実に職業としての書家を支えたのは、依然として書塾の経営であった。そこでは、師匠の手本が与えられることが多く、古典学書などが容易に普及する気配がなかった。  それで、業を煮やした比田井天来は、大正10年(1921)から古典学書の範例として『學書筌蹄』全20集の刊行に踏み切るのである。 それは、
  
琅邪臺刻石   
北海相景君碑   
鄭羲下碑   
張猛龍碑   
雁塔聖教序   
争座位帖   
張金界奴本蘭亭叙   
十七帖   
詒晋齋本黄庭経   
化度寺塔銘   
和漢朗詠集

など、各体の代表的な古典によって臨書の仕方を範例として示したものである。和漢朗詠集のみは、夫人の比田井小琴が担当した。  
  このように古典学書の方法を例示したのであるが、「魚と兎が手に入れば筌蹄は、実に厄介千万なる邪魔物であらねばならぬ 。本書の如きもまた一日も早く諸君の邪魔物とならんことを大いに希望して居る次第である。」と述べ、いつまでもこれに頼るならば、「筆者が古人の罪人」になってしまうとまでと言っている。    
                      ◇           ◇  
 この漢字の比田井天来に対し、かなにおいても学書が古筆によるべきことを主張したのが、尾上柴舟である。柴舟は、西本願寺本三十六人集の発見者として名高い大口鯛二に書と歌を学んだ人であるが、大正一二年(一九二三)に東京帝國大学に『平安朝時代の歌と草仮名の研究』の学位 論文を提出して、古筆体系を書風の分類、変遷を通じて文化史的に位置づけ、かな学書の方法論を一新したのであった。    (つづく)

―神戸全美20周年企画記念展―
明日への夢展
「美を継ぐ者たち」・ 「昭和二桁世代の『現代書家』の素顔」
■6月22日(木)〜25日(日) ■兵庫県立美術館王子分館 原田の森ギャラリー(2階本館、西館)

 

 

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