書人探訪21 −出会いの旅−(55)     宮 負 丁 香    文・田宮文平

    

 

 
   柳宗元詩  (書星15人展) 2005年3月

 

 浅見喜舟が創設し、浅見錦龍が継承する社団法人書星会は、日展系、読売書法展系ながら、早くから超大作に挑戦するなど、現代の書に非常に意欲的な会である。新世代に小原天簫、浅見百意、伊場英白、高橋心行、飛田冲曠など人材が多いが、いわばその要にいるのが宮負丁香である。  
  書に出会ったのは、千葉県立成東高校に入ってからで、書の担当は小高暎帯であった。高校に入るまで、書塾に通 ったことはないという。そこで書道を選んだのも、音楽、美術が好きでなかったからというからおもしろい。書道部に籍を置いても、同級生に阪神タイガースの監督をつとめた中村勝広がおり、宮負は専ら応援団に熱中したらしい。  
  それが高校二年のとき、教員だった母堂が亡くなり、それを機に書に真剣に取り組む気持になった。大学は、小高先生が浅見喜舟門の竹内臨川がいる新潟大学をさっさと手配してくれたが、上越校に受験に出向いたとき、あまりの雪の凄さに喫驚した。温暖な千葉県の人としては当然であったかもしれない。かつて浅見喜舟も旧制高田中学(上越)に赴任して、夫人が豪雪に音をあげたことから千葉師範に転任したくらいである。宮負丁香は一日目の学科を受けただけで、二日目の実技は受けず、こっそり帰ってきてしまった。竹内臨川も実技の提出のないのに困惑したらしい。  
  それで昭和43年(1968)に大東文化大学中国文学科に入学、浅見錦龍にも師事することになった。
          

   蘇東坡詩    
   (第36回日展)    
 2004年

                    

 大東文化大学に入ると、小高先生は東松山に下宿を紹介してくれたが、それが何と増田という料亭だった。美人の女将がいて、しかも料亭の部屋を当てがわれたのだから、ずいぶん面 喰らったらしい。小高先生は、テニスの合宿などに増田を贔屓にしていたのだ。  
  そのころの大東は松井如流を主任教授に宇野雪村、青山杉雨、安藤搨石、上條信山、熊谷恒子、今関脩竹、浮乗水郷等の豪華教授陣だった。同級生には中井真樹、田中常樹の独立書人団系、それに重本天空、畑林畊陽らもいた。一級上は角元正燦、一級下には高木聖雨、有岡 崖、佐川倩崖、山中翠谷、永守蒼穹らがいたというから、教授も学生も凄かったわけだ。  
  宮負丁香は、下宿が近かったこともあって中井真樹(中井史朗令息)から独立の超濃墨をだいぶ鼓吹されたらしい。とにかく独立的臨書の影響をもろに受けた。あたかも師の浅見錦龍が、若き時代に手島右 に私淑したことと符節が合っているような気がする。学校へはほとんど行かず、下宿でみなで書いて書いて書きまくった。これにはさすがにあきれて成東高校先輩の今関脩竹教授が、「キミ出席しなければダメだよ」と言ったという。当時の学生は、みなそんな風だったらしく、それで基礎も出来た。  四年生になると、卒業単位が不足したら大変と、月曜から土曜まで出席した。それでも千葉県の高校書道専任と、中学の国語に採用されながら、もし、卒業できなかったらどうしようと心配だったらしい。卒論が、空海だったのは、なお、独立系の影響があったのであろうか。
           

      

 

 

 

 

 




王覚斯詩          

千葉県展)
2004年11月 
    



 ともかく卒業して最初に赴任したのが、新設の県立千葉南高校だった。以後、千葉東高校、千葉女子高校、そして、現在の千葉高校と名門の学校に勤務することができたのは幸運というべきであろう。  
  日展に初入選したのは昭和48年(1973)、24歳のときで、当時の錦龍師風の連綿草の調子で書いた。以後、手本なしだが、書いてゆくと真っ赤になって返ってきたというから、指導は徹底していたわけであろう。  それからまもなく浅見喜舟の代稽古を頼まれるようになった。喜舟先生は奥の部屋にいて、宮負が指導していると、「急にうまくなるようにしてはダメだよ」とか「そんなことまで教えることはないよ」とか、喜舟にはおもしろいクセがあったという。  その浅見喜舟は、昭和58年(1983)に亡くなる。それで、みな浅見錦龍門に移ったが、代稽古はそのままつづけられた。  浅見錦龍の指導は唐以前のものとはっきりしていて張猛龍、木簡、王羲之、王獻之等を習ったが、それ以後は自分で書いて行って見てもらった。現在は、専ら米慳 、王鐸、徐渭に打ちこんでいるという。宋代の深みのある線に、明清の章法を結びつけたいらしい。徐渭について聞くと、スケールの大きさ、予測できない展開に惹かれるという。  
  調和体について聞くと、錬度を目指す世界ではないのではないか。だから、漢字、かなで力をつけた人が試みる世界。しかし、実際に漢字を書いていて、たとえば、杜甫と李白の情感の違いをなかなか書には出せない。それが、たとえば齋藤茂Z、伊藤左千夫と山頭火だったら、おのずと書に違いが出てくる。だから、日本人として調和体の重要性は認識しているが、現実はそうそう容易ではないとも語る。
 
   〈 略 歴 〉 1949年生。 出身b千葉県。 師b浅見錦龍。
           日展会友。読売書法会理事。 書星会副理事長。太玄会運営委員。千葉県美術会常理。

 

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