書人探訪21 −出会いの旅−(54)     山 下 海 堂    文・田宮文平

            

鐵 眼 (川越美術協会展)
平成16年10月

 

  山下海堂は、2005年3月、北京の中国美術館で開かれた21世紀燕京書道交流協会(会長恩地春洋)の書展を理事長として陣頭指揮、出品者500余名、訪中団170余名をつつがなくこなし、二一世紀の指導者としての存在感を示した。  
  この燕京書道交流協会は、わずか数名の草の根の日中文化交流としてはじめられたものであるが、いまや、会員は800名を超え1000人規模に迫る勢いである。もともと縦社会の系列ではじめられた会ではないから、中国への初出品、初訪中の人も多く、交流の実をあげられたにちがいない。  
  山下海堂は、宮城県雄勝町の生まれである。小学校、中学校時代から書も絵も得意だったらしく、あまり貼り出されるので困ったぐらいだという。厳父も兄弟も絵をそれなりに書いたというから血筋であろう。担任は、将来は芸大を目指したらとすすめてもくれた。  
  山下は四男であったが、戦後の食料確保で全盛を極めたサケマス船団の海難事故で長兄、次兄をあいついで失った。それで中学を卒業しても進学はおもうにまかせず、油絵の得意だった弁護士のもとで書生をつとめながら県立石巻高校へ通 った。しかし、この弁護士もやがて倒れてしまう。
          

 漢 俳 (雅遊会展)  
平成17年3月 

                    

 それでも絵や書への気持は強く、上京して港工芸というディスプレーの会社に勤めた。街を歩いていても楷、行、草の看板が気になって仕方がなかった。あるとき第一勧業銀行の毛筆の文字の看板に感動して、何とか弟子になりたいものと探し廻って、浦田某という人を尋ねた。講談社の雑誌の挿画などを書いていた人らしい。文字の草稿から店舗の看板、自動車のマーク、その他の図案など、いろいろと見せてもらって勉強した。  
  それからは筆文字による仕事を重点に熟して、自動車のマークとか社名などの文字を専ら書いた。それが契機となって、ロードローラーなど道路機械車輌の専業大手の酒井重工業に認められ、昭和40年(1965)、埼玉 県川越市に宮城工芸を設立して独立した。この年、中学の後輩の洋子さんと結婚したが、いまや夫人は、地唄舞の名取で、山下海堂共々、広い稽古場をそれぞれに持つ発展振りである。  
  さて、宮城工芸は酒井重工業の仕事を引きうける一方、地元の名門百貨店の丸広の看板等も熟して政・財界にも人脈を広げるようになった。そうなればなるほど、書道をもう一度、本格的に習ってみたいという気持がつのり、昭和四四年(一九六九)、地元の五十嵐越山に師事するようになった。この人は東京電力の人事課にいた人で、藤本竹香、田中真洲等と親しく、その関係で『筆之友』の競書にも応じることになる。
            
           

      

 

 

 

 

 




王 維        
 寒食城即事    
(産経代表展)
   平成17年1月    



 ところが五十嵐師は10年ほどで亡くなり、同門の仲間の鈴木青山、小林静風、高橋峰雪らの通 いはじめた熊谷市の柴田侑堂に改めて師事するようになった。その関係で河内雪峰が会長をつとめる雅遊会の夏期講習会にも参加した。  
  五十嵐越山師のもとでは、実用的な楷書が専らであったが、柴田侑堂のもとでは蘭亭叙、十七帖、喪乱帖等の王羲之系の行草書、 遂良、顔眞卿などを本格的に習う。当初は『筆之友』、『日本書道』(そのころ柴田師は日本書道院に所属)、『書の世代』(十鳥霊石主幹)などの競書誌に出品して腕を鍛え、師範位 も得た。  
  それで、はじめて公募展に応募したのが、昭和59年(1984)の第一回産経国際書展というから、そこに辿りつくまで、ずいぶん廻り道をしたことにもなる。書の世界にあらかじめ予備知識をもっている人など少ないのだから、そういうことも現実にはあるのだ。  
 柴田侑堂師に巡り合って本格的に学書をこころざすようになると、幼少のころからの資質がめきめき開花して、平成6年(1994)には産経国際書展審査会員となった。はじめは鈍行列車だったが、途中から特急に乗りかえたようなものである。こうなると書への熱情は、いよいよ高まり、宮城工芸は長男へゆずって、いわば書専業になったから勉強にも拍車がかかる。  
  産経国際書会に参加しても、もともとが苦労人で人情の機微に通じているうえに、実業で培った識見、経営感覚からおのずと頭角をあらわして、新世代の指導者として重用され、期待されるに至った。特に燕京書道交流協会では植木九仙理事長の急逝のあと、抜擢されたが、それもみごとに熟して、人間的にもひと廻り大きくなった。  
  平成14年(2002)には、川越クラッセで初の個展を開いて実力を示したが、銀座でという声にも、まずは地元からと堅実さもある。  これからの課題としては、従来の楷、行、草に加えて表現の骨格の裏づけとしても篆、隷を本格的に学びたいという。そして、東京芸術大学美術館で見た横山大觀の『海十題』に感動、みずからも生まれ育ったふるさと宮城の海をテーマに同じような作品を書きたい、と夢を語る。  
  いまや、二一世紀のスケールの大きな指導者として、いよいよの期待があつまる人である。

  〈 略 歴 〉 1937年生。  出身b宮城県。 師b五十嵐越山、柴田侑堂。産経国際書会常務理事。                雅遊会副理事長。21世紀燕京書道交流協会理事長。海友書院主宰。

 

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