書人探訪21 −出会いの旅−(53)     岩 永 栖 邨    文・田宮文平

                  

                          
梅 花

(第24回選抜香瓔150人展)2004  

 平成15年(2003)の第35回日展で特選に選ばれて一躍、注目された岩永栖邨は、榎倉香邨に学び、兵庫県立北条高校にも勤めていたから、てっきり関西の出身かとおもっていたら佐賀県の生まれであった。  
  小学4年のとき、週1回巡回してくる日本書道教育学会系の町書家に習った。小、中を通 じて、いろいろ賞をもらったというから書は性に合っていたのであろう。佐賀県立鳥栖高校では、書の担当教員はいなかったが、書道部員40名ほどのまとめ役をやっていた。そんなわけで大学は、書道関係にすすみたいと考えていた。高校三年の夏休みに福岡教育大学に書道があることが分かって、あわてて受験準備をはじめたが、古典のどんなものを勉強すればよいのか分からない。それで学友の紹介で奎星会系の平川朴山に臨書のやり方を短期間にうまく教えてもらった。福岡教育大学に入学してからあとで聞くと、実技は二番で合格していたというから余程、要領をうまく教えられたにちがいない。  
 
           
                 
                       暁 光   (第35回日展 特選) 2003

  昭和43年(1968)に福岡教育大学特設書道科に入学したが、教官は相浦紫瑞、横田小竹、Z野松石らで同級生には師村妙石がいた。師村は篆刻に目覚めて、昭和47年(1972)、卒業の年には早くも日展に入選した。卒業しても九州では書道教員の募集はなく、あるのは兵庫県、大阪府、千葉県などであったが、運よく兵庫県に採用され、県立福崎高校に赴任した。同期に採用されたなかに惜しくも昨年急逝した畑林畊陽がいた。畑林は榎倉香邨の子飼いの弟子で、高校時代に早くも毎日展に入選、やがて毎日賞にもなるという華々しい活躍をしていた。一方、岩永の方は、同じ書道専任と言っても書道会等には所属せず、専ら授業につとめた。この間、マージャン、パチンコ、スキー、自動車等、随分、楽しんだらしい。30歳で結婚して、ふと振りかえると、いまの自分の力では才能ある生徒を磨いてやれない、指導力もとまっているとおもった。このままでは本物にはなれんなあなどと考えているとき、たまたま夏休みにNHK教育テレビを見ていると、婦人講座に榎倉香邨が出ていた。大学を出て兵庫に赴任するとき、紹介状を書いてやろうかという人がいて、かねて榎倉香邨の名前は承知していた。それにしても、その凛々しい姿、鮮やかな筆運びには衝撃を受け、感動した。それで二、三日後にかなの単体と趙之謙を書いて訪ねると、あいにく留守であったが、あとで電話があって稽古を見にきなさいということになった。ちょうど、日展出品の仕上げの時期で、その指導振りは神様のように見えた。「いまからでも教員として間に合いますか」と聞くと、「かなだったら一緒に勉強しよう」と言ってくれたという。いかにも榎倉香邨らしい。もっとも、ちょうどそのころ榎倉香邨が正筆会から別 れた時期で偵察に来たのではないかとおもう人たちもいたらしい。それまで岩永が、どこにも所属せず、名前が知られていなかったからにちがいない。  
  岩永栖邨は、ここで再び畑林畊陽と出会う。しかし、教員採用のときからでも10年からの差がついている。かつては生意気なやつとおもったものが、こんどは尊敬の気持に変わり、少しでも追いつきたいとおもうようになった。だから形見にもらったカフスボタン、タイピンは書展のときにはかならずつけているという。  
            
           
           

                    晩 夏     (第33回日展) 2001

  榎倉香邨の香瓔会では、機関誌『書香』の10級からはじめたが、33歳のとき日展に出してみるかと言われて挑戦、35歳で初入選、それからまた2回落ち、以後、17回連続入選して1回目の特選に結びつけた。  
  榎倉師に就いて関戸古今、寸松庵などをやってきたが、香瓔の主流ともいうべき香紙切などはあまりやらないという。岩永の書風を見れば分かることだ。北魏の造像記や木簡などの漢字が好きで、上代様だけではちょっともの足りないともいう。骨格のしっかりした文字を書きたいというのも同様の考えであろう。亡くなる前の畑林畊陽が、青山杉雨の行草調を巧みにかなに取り入れていたことも、畑林を目標としてきただけに影響があるのかもしれない。それにしても、そんな発想ができること自体、榎倉香邨の会だからで、その点では責任もあるが、恵まれているとも言える。  
  目下の課題は、かなの縦の流れに、漢字の強さをどう融合させるかだという。それが、なかなかうまくゆかなくて、漢字系の人からはダメ、かな系の人からはゴツゴツしすぎると言われる。これからは、もっと本来のかなの美しさに近づけたい。そして、もっと簡素で、かつ流麗なものを書きたいともいう。これは言うは易く、行うのは大変だ。しかし、そうした目標がかなえられたとき、岩永栖邨のかな書は、もう一段、上に行くにちがいない。  
 畑林亡きあとの香瓔会にとって、同世代の岩永の存在は重要である。この3月に5年をのこして高校教員を退職して書に専心するのも師の胸中を察しての自覚にちがいない。


  〈略歴〉 1950年生。  出─ 佐賀県。  師─榎倉香邨。
       日展会友。読売書法会理事。日本書芸院理事。香瓔会総務。栖秀社主宰。

 

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