書人探訪21 −出会いの旅−(52)     角 元 正 燦     文・田宮文平

 



皇家貴主好神仙…
侍宴安楽公主新宅応制」 沈  期  

(読売書法展20周年記念「本格の輝き」書展)2004  

 角元正燦は、日展、読売書法展、謙慎書道展等で活躍する新世代の書人である。  まず、「正燦」なる雅号が珍しいので尋ねてみると、本名が「正三」で、号として「正參」などとも使っていたらしいが、あるとき、青山杉雨師が「正燦」とつけてくれた。角元は、徳島県阿南の出身なので、南国の陽光燦々たるイメージがあったのかもしれない。実家は水産業を営んでいたが、角元は三男でもあるので、自立すべく日本大学法学部へとすすんだ。  
  書は幼少のころから好きであったが、いわゆる書道界なるものが存在するとは田舎のこととて全く知らなかった。大学2年のとき、下宿の近くに加藤玉 渕がおり、紹介する人があって入門した。玉渕は高林五峰に学んだ人で、昭和20年代から30年代にかけて、まだ、隷書など書く人が珍しい時代に、それなりの存在感を示した書人である。  
  日本大学を出て、さらに大東文化大学に学部入学したのは、やはり、書が好きであったからであろう。この時期、加藤玉 渕の内弟子のようなことをしていたらしい。他の門人とは別メニューで孟法師碑、九成宮醴泉銘、書譜などを習った。そのうち、もう少し時代の空気を感じさせるような人に習いたいとおもっていると、加藤師は青山杉雨への紹介状を書いてくれた。書壇はまだ家族的な、よき時代であったのである。  
  青山杉雨を訪ねると、「これから印度へ出掛けるから帰ってきたころ来なさい」と言われた。それが中国でなく印度というところに角元は、他の書人にない恰好よさを感じたらしい。

     

         

(第24回日展 特選)1992 

 入門するとまず1年間、雁塔聖教序を習った。折帖に1回、12文字ずつ書いてくれた。杉雨師は、一から教えるつもりだったらしく、「楷書は一点一画決めつけて書かなければダメだ」とも言った。角元の書に行草的雰囲気があるのを見て、それを取ることからはじめたのにちがいない。  雁塔を1年間、折手本2冊仕上げると、つぎは隷書に移って禮器碑を習った。「隷書は楷書と異なって左右の中心線がある。字が正面 を向いているように書くのが大事だ」とのみ言った。他に尋ねようとすると、「目の前で書いているのだから、ほかに教えることなんかあるか」とも。これも折手本二冊、一年間習った。  
  26歳のとき隷書をかいて日展に初出品し、初入選した。以後、手本は無くなり、毎週一回、お手伝いをかねて師のもとへ通 うようになる。そして、隷書で三回つづけて日展に入選したが、師は「お前の隷書はもう厭きた」と言われる。それで、封泥風の篆書をかいて日展に出したら、みごと落選した。師からは「お前に篆書など教えたおぼえはない」とも言われた。しかし、封泥に拘って400〜500字も小さく多字数で書いて入選を果 した。  
  ちょうどそのころ日展に帖、巻子が復活することになり、侯馬盟書風に書けと、小さく三行ほどヒントを書いてくれた。この風を巻子で三回入選すると、また、師から「もう厭きたわ」と言われる。このころは、どこまでついてこれるか、根性を試されているような気がした。  
  第一回読売書法展のとき、金文を小さい文字で書いて持っていくと、師は「これでいい」と言った。まだ、時間があるので、こんどは、2×8に金文を三行書いていくと、「いいと言っているのに、お前も変わっているなあ」とも言われたが、「こっちの方がよい」と出品したら読売新聞社賞30点のうちに選ばれた。伊藤伸が代表して謝辞を述べた。

              
              

                              
                       武 骨   (第36回日展) 2004


 
この金文三行で日展入選をつづけると、またもや「もう厭きた」と。それで、こんどは、3×6の横形式に詩経を金文で書いて謙慎展に出すと梅花賞になり、同様のものが日展の特選候補にもなる。  
  平成時代になると、こんどは日展に大字をやれという。実は、それまで踏み込んではいけない領域とおもっていた。とにかく筆から揃えて、印も和中簡堂に急遽頼んで、『風順』と書いて出品した。その翌年も大字を書いていったら、
「大字は性格的に向いていないから中字に変えろ」と。さらに落選させるのは忍びないから、今年は出すなとも言われた。しかし、敢えて大字に挑戦し、2ヵ月ほど書いて書いて書きまくって毎日、見てもらいに行った。この年、『魚戯』が第1回目の日展特選となった。2回目は平成4年(1992)の『畏茘』であった。このとき、杉雨師はすでに浦安の順天堂病院に入院していたのだが、「お前、雷が恐いか」と言われたという。杉雨邸は、世田谷区等々力に因んで「轟庵」と言うのだ。  この角元正燦の大字の線性が変貌するのは、兼毫筆で薄い紙に書くことから羊毛筆で二層紙に書くようになってからである。「濃墨でオドロオドロした情念が出せないか、ときには自己の醜ささえ表現できないか」、そうした自画像のようなものを考えているという。すると何か青山杉雨の師西川寧の世界へ一歩近づいているように感じられて不思議でもある。

  〈略歴〉 1947年生。 出身─ 徳島県。 青山杉雨、成瀬映山。日展会員。
       読売書法会常任理事。謙慎書道会常任理事。  

 

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