書人探訪21 −出会いの旅−(51)     高 木 厚 人     文・田宮文平



冬  (第36回日展)2004

 日展会員の高木厚人は、二一世紀の「かな」を考えるとき、まさにプリンス的存在であろう。実技ばかりでなく理論においても、京都大学文学部美学科を出た明晰な頭脳は貴重である。  
  高木厚人の厳父東扇は尾上柴舟、母堂貞子は藤田霞畦に就いた人だから毛並みもよいと言いたいところだが、事はそう簡単ではない。  
  高木東扇は、千葉師範学校で浅見喜舟に学んだ人だが、当初、書家になる気持はなかったようで、卒業後は船橋市の小学校の教員をしていた。それが戦中に同僚から遺品の文房四宝をもらって書道に関心を持つようになった。昭和二三年(一九四八)に文検廃止に伴う移行措置として開かれた文部省、東京美術学校共催の書道講習会に参加したことで、講師の尾上柴舟とも出会うことになった。免許状を取ってからは明治中学、高校の国語、書道を担当した。厚人が小学二年のとき近所の“早苗ちゃん”が習字をならいにきた。それで厚人が「早苗ちゃんは、どうして家でお父さんに習わないの?」というと、「うちは八百屋だから字を書かない。」と。厚人は、それまで習字などはどこでも両親が教えるものとおもっていたらしい。  
  小学時代は、厚人もみなと家で習字をならっていたが、中学になると退屈になってやめてしまった。高校時代には、学園紛争真っ盛りの影響もあって、「平安貴族のやんごとなき書を習うなんて、一握のブルジョアの遊びに過ぎないじゃないか。」と反抗もした。厳父東扇は、それに答える術もなかったようだ。  
  高木厚人が、まだ小さいころだが、尾上柴舟同門の杉岡華邨が関西から稽古に来ると、よく高木家に泊まった。身体が大きく、ことば(関西弁)がよく分からない人だった。  
  東京の大学を落ちて浪人をしているとき、奈良に遊びに行って杉岡家に泊めてもらうと、かねての疑問を杉岡華邨にぶつけたらしい。すると父親とは異なって、「いま字を書くことは時代とつながっているんだよ。」という明快な答えがかえってきた。当時、杉岡華邨は大阪教育大学の補導部長に任じていて、学園紛争の対策にも当たっていたのだから、厚人の質問などは軽くあしらえたにちがいない。

     

      秋 萩       

(第24回日展 特選)1992

 浪人中に、たまたま、新潟出身の早稲田大学の学生と知りあってよく議論もした。そうした過程で、自立するためには、やはり家から離れることがいちばんだ、と考えるようになった。それで大学は京都に行きたいと言うと、柴舟師没後、京都の日比野五鳳のもとへ通 っていた厳父は、直ちに賛成してくれた。ただし条件が一つだけついて、「杉岡華邨のもとへ稽古に通 え」と。高校生のときから杉岡家には泊めてもらって、前の池で釣りをしたり、大阪万博にも行ったりしたから、それに有無はなかった。  
  京都大学に入ると、約束通り月二回の稽古に通った。終るといつも酒が出て食事をご馳走になった。杉岡華邨は若き時代に京都大学に内地留学し、久松真一教授や井島勉教授に教えをうけたから、懐しがって頻りに大学の様子を聞きたがった。稽古に通 っても別に入門ということでもなく、臨池会に出品するわけでもなかった。  
  大学では九段高校時代の友人が、よく絵を見に連れていってくれた影響で美術史を専攻した。部屋にセザンヌやミレーの絵を飾っていると、父東扇はなんでそんなものばかりを貼るのかと言った。気持としては書の一枚でも貼っておいてほしいということであったのであろう。  
  大学の三年のとき、母貞子が長期入院したため、三年間休学して東京へ帰ったが、父東扇と一緒に日比野五鳳の稽古について京都へも行った。この間、日比野五鳳や手島右 の作品集を見て、書に一つの発見をしたという。また、東京の杉岡華邨研究会にも出席して、次第に杉岡美学が理解できるようにもなった。しかし、まだ、書を本格的にやるつもりはなく、松本という同級生が東京国立近代美術館に入っていた関係もあって、卒業後はそれを目指していた。大学では、ガストン・バシュラールの詩学を専ら研究した。当時『水と夢』、『空と夢』などの著作によって、メルロ・ポンティーなどとともにブームでもあったのである。

    

                        

                          影富士      
                              (第86回書教展)
                                 2001

  しかし、昭和55年(1980)には杉岡華邨に正式に師事、臨池会にも入会した。そして、高野切第三種を習ったあとは、自由にしてくれて寸松庵色紙、本阿弥切、中務集などを精習した。漢字は九成宮醴泉銘、蘭亭叙、書譜などを折帖に書いてくれた。  
  杉岡華邨を継いだ赤江華城が大阪教育大学を退官すると、そのあと助教授に任じた。しかし、年老いた両親の面 倒を見るため東京に帰りたいと、大東文化大学に転じようとしたときには、さすがの杉岡師も首を縦に振らなくて参ったらしい。学術面 でも頼りになる愛弟子を側に置いておきたかったのかもしれない。  
  これからのことを聞くと、社会に向って「書の啓蒙」に尽くしたいという。東京国立近代美術館へ入りたかったという気持が、いまだ、生きているのであろうか。

 

 略 歴   1953年生。  出身─千葉県。 師─杉岡華邨。日展会員。
        読売書法会常任理事。臨池会副会長。大東文化大学教授。

 

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