書人探訪21 −出会いの旅−(49)     土 井 汲 泉    文・田宮文平

 



将 (第21回新書派協会選抜展)
2003年 69×69

 土井汲泉の所属する新書派協会(会長近藤攝南)は、歴とした関西本籍の書団体であるが、関東との縁も深く、関西にありながら社団法人日本書芸院には参加していない。近藤攝南は、「関西の書家百人展」にも出品していたから、ときに錯覚してしまうほどだ。  
  土井汲泉の書との出会いは、和歌山県田辺市の小学時代であった。小三のとき書初大会用に新聞紙に練習したが、うまく書けなくて泣きながら学校へ行った記憶があるという。余程、書が好きだったのであろう。  
  和歌山県立田辺高校では書道部に属し、キャプテンまでつとめたが、その年から近藤攝南系の人が赴任してきた。その前年までは津村枕石で、卒業後もみな門下になったというから一年の違いで人の運命は変わるのである。  
  書道部では、近藤攝南主幹の月刊『書』をとって競書を出していたが、あるとき教師が同級の弓場龍溪と二人だけで、京都建仁寺で開かれる新書派協会の二泊三日の練成会へ行けという。当時はまだ、月刊『書』の六級ぐらいだったが、田辺市展に出すべく指導してもらった。3×8尺に三行の陳鴻壽風の行草を書いて出品したら、これが市長賞となった。高校生にしては随分、ませた書であったにちがいない。市長賞を受賞すると委嘱になる規則だったが、若すぎるというので一悶着あったらしい。しかし、推挙された以上、先輩たち以上の作品を書こうと努力した。

     

  陶淵明詩   
(第26回日展 特選) 
1994

 卒業後は、田辺市農協に勤めながら、月刊『書』で資格を取って書塾も開いた。農協へ勤めている信用もあって結構、流行ったらしい。20歳そこそこであった。  
  新書派協会の合宿に参加すると、仲間はみなグループで終わると飲みに行ったりしたが、一人だから、どうしてよいか分からない。あるとき、一人で部屋で書いていたら、近藤攝南がひょっこり顔を出して「風呂でも行こうか」、と誘ってくれた。帰りにうどんを食べたりしたが、普段、恐いとおもっていた先生が、やさしいところもあるのだとおもったという。そして、「農協で成績あげないかんだろう。そな、貯金に協力したろ」とも言ってくれた。  
  こんな風にして月刊『書』の誌友をつづけながら農協と書塾に励んでいたが、そのころ三つ上の姉が突然、亡くなった。「人生分からんもんや。いまやれることをやっておかなんと」と考えるようにもなった。  
  そんなとき、月刊『書』に「手伝い募集」のお知らせが出た。咄嗟に親にも相談せずに近藤先生にお願いすると、「農協ぐらいの給料は出してやる」ということで直ぐ決まった。ところが、漁師で一徹者の厳父は大反対だった。それはそうだろう。農協も書塾もうまくいってるのだし、姉亡きあと側に置いておきたいとおもっても当然である。しかし、それも椿温泉で日展の合宿があったとき、近藤攝南が「若いときに大きな海に泳がせてやりなさい。」と説得してくれた。これには漁師も弱い。  
  月刊『書』の事務所は、名にし負う大阪の黒衛門町のネオン街のどまん中にあった。「家賃払って部屋を借るより、それで紙、墨を買いなさい」と事務所に寝泊まりすることになった。幸か不幸か、土井汲泉は酒が一滴も飲めず、盛り場の誘惑に陥ることがなかった。それどころか、古書店やギャラリーを廻っていたというから変り者である。そして、夜は誰もいないわけだから書や絵画や陶芸の本を専ら読んで過ごした。土、日は田辺市に帰って書塾をやったから365日休みなしだった。

             

                   小林秀雄の文   (第35回日展)2003


 こんな生活が結婚するまでの24歳から25歳までの1年3ヵ月つづいたが、46時中、師匠に接していてものの見方、考え方、人間としての生き方を教えてもらった。これは仕事以上に得難いことであったにちがいない。結婚することになって、その後の11年は通 いになったが、この間、編集、審査、撮影、発送等々、大車輪の活躍であった。結婚の記念には、折から個展を開いていた池田万寿夫の版画を飛び込みで買って池田を驚かせた。  
  近藤攝南には、はじめ十七帖、それから陳鴻壽の隷書を折帖に書いてもらったが、あとは自由にやらせてくれた。17帖など電車のなかで背臨して覚えてない字をチェックした。やがて、これはカード化することになり、書譜、顔真卿の三稿、米慳 、何紹基、大雅堂など、みなカード化したが、特にどういう前後関係があるかに留意して、ぶつ切りで覚えないようにしたことが、今日、非常に役に立っている。  
  毎日展では、昭和54年(1979)に準大賞、辻井京雲と同期であった。日展には昭和四六年(1971)、24歳で初入選。まだ、近藤師に就く前で漢字書だった。初入選を機に昭和47年(1972)に近藤師に正式に入門したが、以後は調和体の出品が多い。当時、近藤攝南は近代詩文書作家協会(会長金子躾亭)の有力なメンバーであり、土井汲泉も熱海の協会合宿に参加したのである。  
  日展特選は、平成6年(1994)の1回目が漢字、平成8年(1996)の2回目が調和体であった。その双方が熟せる新世代の実力者のますますの活躍を期待したい。

 

略 歴 1947生。 出身-和歌山県。  師-近藤攝南。
     日展委嘱。読売書法展常任理事。
     新書派協会副会長。羽衣国際大学客員教授。

 

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