書人探訪21

−出会いの旅−(43)

江 口 大 象

文・田宮文平

  朧 月 夜    

37×33   2004年  

 江口大象は、昭和10年(1935)、中国青島で生まれた。やがて天津に移り、そこで小学四年まで育った。厳父が鐘紡系列の北支綿花に勤務していた関係である。大陸的なおおらかな性格は、その所為か、生来のものか。  
 戦後は本籍地の佐賀県に帰って高校まで、そこで過ごした。書との出会いは、中学校の国語の時間で、広津雲仙系の書に熱心な先生であった。書塾に通 ったことはない。   
 
名門佐賀高校は当時、1学年が1000人もいるマンモス校で、書道担当の先生が3人もいたというから盛んであったのであろう。そのうちの1人が名伯楽ともいうべき土肥春嶽で、後に佐賀大学教授にもなった。上級生には大河内仙嶽、高尾秀嶽、野中正陽、西村春齋らがおり、後輩には野中朱石など、現在の書壇でもよく知られる人たちを輩出した。  
  高校2年生のとき県展に出品すべく、黒木拝石主幹の書道雑誌に載った小坂奇石の日展出品作を参考にしようとしたが、読めない文字がある。そこで、ご本人に問い合わせたら丁寧な答えが返ってきた。そんなことから小坂奇石に通 信教育を申込んだというから人間の縁は分からない。  
  大学は、ともかく東京へ出たくて東京学芸大学を受けた。合格すると大泉寮に入ったが、そこで出会ったのが大溪洗耳で、2年間も同室だった。大溪は社会人を経験してから入学したので3歳ほどうえで大いにませていた。一緒になると忽ちマージャン、パチンコ、酒、タバコを覚えさせられた。同期は当たり年で揚石舒雁、山岸望雲、神山重信等の人材が揃った。それでハメもよくはずしたが、夏休みなどには争座位 稿の全臨を5回とか、人間修業のためには小説がいちばんと、かならず一編は書くように決めたりした。 
 

徳島県立文学書道館開館記念展
小坂奇石詩句 180×97  2003年

 当時の東京学芸大学書道学科は、主任教授が田邊古邨、ほかに伊東参州、鈴木竹影、続木湖山、藤原楚水、山田正平等という錚々たる教授陣であったが、大溪洗耳などは「オレたちのほうが書が分かっているのによく教えられるね」などと憎まれ口をたたいたらしい。しかし、こういう学生に限って、教授にとって扱いにくくても可愛いということであろう。和気靄々の雰囲気でもあった。卒業後もよく親交のつづいたのも、それを裏づける。学校では初唐の三大家の楷書の原寸大臨書を手はじめとして習う。日展等にも出掛けて一線級の書人の書の吸収にもつとめた。その反面 、会場で酷評もしたらしい。  当時は卒論はなく、卒業制作として、銀座で書展を開いたら、全紙一枚半継ぎ二枚の書を安藤搨石が褒めてくれたという。  卒業しても就職口がなかなかみつからない。そこでデパートの字書きでもやろうかとおもったら田邊教授のお叱りを受けたらしい。そこで小坂奇石のすすめもあって大阪府の教員試験を受けたら合格した。指導主事が近藤攝南であった。カバンひとつを持って大阪へ行き、小坂師のもとへとりあえず居候したが、直ぐに職が見つかるというものでもない。しかし、やがて松永暘石が府立市岡高校の国語の担当をゆずってくれたという。これが、20数年にわたる教職のはじめであった。最初は定時制の国語を2年、それから昼に移って20年近く教えた。


李太白詩(璞社書展)
360×200 2003年

  江口大象が大阪へ赴任した当時、小坂奇石は南田辺に住んでいたが、その近くに小坂夫人が下宿を探してくれたという。親代りにもなってくれたわけだ。市岡高校の教員になった年に日展に初出品し初入選。以後、平成9年(1996)に二回目の特選を得るまで、二五回の入選を果 した。旧東方育ちの小坂師は、自分で推挙するようなことはしなかったからである。  
  昭和42年(1967)年に小坂師が主幹の『書源』誌を発刊することになり、編集長役が廻ってきた。それから教員をやめて専従になるまでの数年間は二足のわらじとなり、超多忙で疲労困憊したらしい。しかし、このことが小坂師の信頼を得て、やがて多くの先輩たちをさし措いて、小坂奇石が主宰する璞社の後継を托されるのだから苦労の効があったと言うべきであろう。昭和五三年(一九七八)に小坂師が奈良に転居したときには、南田辺に因む『南田居』の印まで譲られるのである。その代わり母校の東京学芸大学から講師に招かれたときには、「オレの右腕を奪う気か」と本人に相談なく、さっさと断ってしまった。  
  高校教員と編集長の二足のわらじは、さすがに堪えたらしく、偏頭痛にも悩まされる。そして遂に教員を退いて編集長専従となるが、確たる収入の保証があったわけではないから夫人は当然、反対した。しかし、それを押し切ったからこそ、今日の江口大象が存在すると言ってもよいのではないだろうか。  江口大象は小坂師の生前没後を問わず、実によく師に尽くしている。喜寿、米寿等の個展を支え、作品集、エッセイ集を編み、没後は、令嬢小坂淳子さんの協力を得て財団法人驥山館、徳島県立文学書道館等へ遺墨を収めた。小坂師を継いだ璞社も関西には珍しいほど新世代が自由に制作し、活気に満ちている。江口自身もタテ12×ヨコ6尺等の超大作を毎回のように発表している。

〈略歴〉
1934年生。 出身-中国青島。 
師-小坂奇石。
日展委嘱。
読売書法会常理。
日本書芸院常理。
璞社会長。


     

top
書人探訪