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書人探訪21 文・田宮文平
江口大象は、昭和10年(1935)、中国青島で生まれた。やがて天津に移り、そこで小学四年まで育った。厳父が鐘紡系列の北支綿花に勤務していた関係である。大陸的なおおらかな性格は、その所為か、生来のものか。
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当時の東京学芸大学書道学科は、主任教授が田邊古邨、ほかに伊東参州、鈴木竹影、続木湖山、藤原楚水、山田正平等という錚々たる教授陣であったが、大溪洗耳などは「オレたちのほうが書が分かっているのによく教えられるね」などと憎まれ口をたたいたらしい。しかし、こういう学生に限って、教授にとって扱いにくくても可愛いということであろう。和気靄々の雰囲気でもあった。卒業後もよく親交のつづいたのも、それを裏づける。学校では初唐の三大家の楷書の原寸大臨書を手はじめとして習う。日展等にも出掛けて一線級の書人の書の吸収にもつとめた。その反面 、会場で酷評もしたらしい。 当時は卒論はなく、卒業制作として、銀座で書展を開いたら、全紙一枚半継ぎ二枚の書を安藤搨石が褒めてくれたという。 卒業しても就職口がなかなかみつからない。そこでデパートの字書きでもやろうかとおもったら田邊教授のお叱りを受けたらしい。そこで小坂奇石のすすめもあって大阪府の教員試験を受けたら合格した。指導主事が近藤攝南であった。カバンひとつを持って大阪へ行き、小坂師のもとへとりあえず居候したが、直ぐに職が見つかるというものでもない。しかし、やがて松永暘石が府立市岡高校の国語の担当をゆずってくれたという。これが、20数年にわたる教職のはじめであった。最初は定時制の国語を2年、それから昼に移って20年近く教えた。
昭和42年(1967)年に小坂師が主幹の『書源』誌を発刊することになり、編集長役が廻ってきた。それから教員をやめて専従になるまでの数年間は二足のわらじとなり、超多忙で疲労困憊したらしい。しかし、このことが小坂師の信頼を得て、やがて多くの先輩たちをさし措いて、小坂奇石が主宰する璞社の後継を托されるのだから苦労の効があったと言うべきであろう。昭和五三年(一九七八)に小坂師が奈良に転居したときには、南田辺に因む『南田居』の印まで譲られるのである。その代わり母校の東京学芸大学から講師に招かれたときには、「オレの右腕を奪う気か」と本人に相談なく、さっさと断ってしまった。 高校教員と編集長の二足のわらじは、さすがに堪えたらしく、偏頭痛にも悩まされる。そして遂に教員を退いて編集長専従となるが、確たる収入の保証があったわけではないから夫人は当然、反対した。しかし、それを押し切ったからこそ、今日の江口大象が存在すると言ってもよいのではないだろうか。 江口大象は小坂師の生前没後を問わず、実によく師に尽くしている。喜寿、米寿等の個展を支え、作品集、エッセイ集を編み、没後は、令嬢小坂淳子さんの協力を得て財団法人驥山館、徳島県立文学書道館等へ遺墨を収めた。小坂師を継いだ璞社も関西には珍しいほど新世代が自由に制作し、活気に満ちている。江口自身もタテ12×ヨコ6尺等の超大作を毎回のように発表している。 〈略歴〉 |
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