書人探訪21

−出会いの旅−(42)

牛 窪 梧 十

文・田宮文平


李白詩・估客樂  

(第35回日展)2003年

 いまや、書壇も展覧会中心主義になって、尾上柴舟や西川寧のような学殖の深い人が少なくなってしまった。富岡鐡齋の言う「万巻の書を読み万里の道を行く」というような東洋的な文人は出ないのかもしれない。そのような現代の書の状況のなかにあって篆刻系の人が、せめてもその欠を補っている。  
  牛窪梧十は篆刻の専家ではないが、自宅の書齋を改装したときに篆刻をする小部屋をつくったほどの人である。また、『篆刻にしたしむ本』や、ロングセラーの『篆刻篆書字典』、『逆字篆刻字典』(いずれも二玄社刊)の著書もある。  牛窪梧十は、埼玉出身であるが、義父(実父は戦死)が、静岡の講談社の野間別 荘の番をしていた関係で小学五年まで、そこで育った。それで、はじめ沖六鵬系の字を習った。郷里に戻っての川越高校時代は小名木東邨の担当で、いわばこの地域は鈴木翠軒系の金城湯池であった。しかし、牛窪梧十自身いわく翠軒流の落ちこぼれで、同系でも現代傾向の強い国井誠海主幹の『誠墨』誌などに関心をもっていたらしい。高一、高二では翠軒流の書初めにも選ばれなかった。それでも高二のときには、二玄社の旧版『書道講座』を全巻揃えていたというから書への気持ちは芽生えていたのであろう。上級生には森田慈 (東京教育大)、関根東湖(東京学芸大)らがおり、牛窪梧十も昭和三八年(一九六三)に東京教育大学に進学した。主任教授は西川寧で、上條信山、森田竹華、ほとんど出講はなかったが、鈴木梅溪の教授陣であった。昭和四〇年(一九六五)に西川教授が退くと、伏見冲敬、小松茂美が加わった。  入学の面接のときに何が好きかと問われて、北魏と答えると西川教授は何も言わず、上條教授が「おゝ六朝か」と言ったというからおもしろい。同級にはZ田洪崖、岡本苔泉らがいた。  
 

李白詩・古風(第65回謙慎書道会展)2003年

最初の1年は、ほとんど何もできない状態で、5月の学園祭のものなど、小名木東邨に見てもらったほどだという。それに、このころは岡本太郎等に熱をあげていて、川越高OBに墨人の同人がいた関係で『墨美』や『墨人』を愛読した。それで井上有一風の書を持ってゆくと西川教授は「ふーん」と言ったきりだった。大学二年になると西川寧の講座があって張猛龍碑や書譜を習ったが、これなら何とかやれそうな気がしてきたという。さらに金文を学び出してから漸く気持が落ちつくようになり、井上有一からも次第に離れた。  
  とにかく高校から大学にかけては、相当に鬱屈したものがあったようで、それが一面 では井上有一に行き、また、前衛俳句の金子兜太主宰の『海程』にも「牛窪いさお」の名で投句し、二度トップになったというから、そちらにも才能があったわけだ。そのころの句の一、二を聞いてみると、「キラキラとひかるケメ子を追えば雪」、「降下兵くろぐろ若い手を垂らしベトナム」というから、なるほど無季の前衛俳句なわけだ。しかし、これも二五歳で結婚すると、とたんに作句する気がなくなってしまったという。因みに夫人の牛窪之楊は、東京教育大の一学年下である。が落ちつくようになり、井上有一からも次第に離れた。  
 
とにかく高校から大学にかけては、相当に鬱屈したものがあったようで、それが一面 では井上有一に行き、また、前衛俳句の金子兜太主宰の『海程』にも「牛窪いさお」の名で投句し、二度トップになったというから、そちらにも才能があったわけだ。そのころの句の一、二を聞いてみると、「キラキラとひかるケメ子を追えば雪」、「降下兵くろぐろ若い手を垂らしベトナム」というから、なるほど無季の前衛俳句なわけだ。しかし、これも二五歳で結婚すると、とたんに作句する気がなくなってしまったという。因みに夫人の牛窪之楊は、東京教育大の一学年下である。 大学を出て母校の川越高校の教諭になったが、この時代に小林斗厘の令弟の長男を教えたことから斗厘師とも縁ができた。それで、篆刻のイロハから漢印の模刻、趙之謙、呉譲之、河井懿廬等へすすんだが、牛窪自身が主宰する成和書展以外には発表したことがない。しかし、和中簡堂などともほぼ同時期に斗厘師に習ったわけで、和中が二玄社に入ったことから小林斗厘編の『中國篆刻叢刊』の貼り込みを毎月一冊ずつアルバイトで熟した。これは目を鍛える意味でも随分、勉強になったらしい。

白鷺飛  (成和書展)2002年11月 

 さて、話は戻るが、西川寧は在学生は門人に採らなかった。それで昭和40年(1965)に退官すると早速、同級の岡本苔泉と願い出て許された。稽古は月1回で、はじめは張猛龍碑を折帖に六字ずつ、二見開き書いてくれた。つまり手本は月二枚というわけだが、書道史や現代の書についての話がいろいろあって、これが本当に勉強になったようだ。また、白川静博士の古代文字についての本がぼつぼつ刊行されるようになって金文の世界への関心をいよいよ強めるようにもなった。  謙慎書道展に出すようになったのは大学を出てからで、はじめの3年くらいは楷書を出し、次第に篆書系に移って行った。日展には西川師が審査員の間は出品しなかったので、28、9歳からで2度落ちて3度目に入った。しかし、特選にはなかなかならず、当時、同じ市内に住んでいたわたしも気を揉んだが、第28回展、52歳で1回目、第30回展で二回目の金的を射止めた。ともに金文の作であった。  牛窪梧十は読売新聞社主催の埼玉書道30人展の超大作でもほとんどが楷書、隷書、篆書で行草系は書かない。若いときの翠軒系の書の反動か、感情の流露する抒情的な書よりも構築性のある篆隷の方がぴったり合うらしい。平成16年(2004)度からは、大東文化大学でも篆刻と篆書、隷書主体に教えている。

 

〈略歴〉
1945年生。 
出身-
埼玉県。 
師-
西川寧、小林斗厘。
日展委嘱。読売書法会常理。謙慎書道会常理。
大東文化大学講師。成和書会主宰。

 
 

     

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