|
書人探訪21 文・田宮文平
何しろ日本人離れした偉丈夫である。しかも鹿児島出身で、本名が義盛というのだから、おもわず彼の人を連想してしまう。物腰はあくまで柔らかく、静かにゆっくりと話す。聖イグナチオ教会に 臨書は原則自由だったが、大学一年の課題は米慳 の蜀素帖であった。まず、とにかく筆に慣れるように努めた。そのほか、家では九成宮醴泉銘や皇甫誕碑などを専ら習った。同級生には中村伸夫、森岡隆がいて、いま、この二人は筑波大学の教授になっている。在学中におもい切って銀座のサエグサ画廊でみんなで書展をやろうということになり、俳句を書いて森田竹華邸へ指導を仰ぎに伺ったら、「そんなのやめなさい」と言われて、その場で書き直しさせられたことなども忘れられない想い出である。卒論は金冬心で、その隷書に現代表現につながるものを見るおもいがした。 卒業後は、筑波大学の大学院に四年間通ったが、何となくネオンのある賑やかなところを離れたくなくて東京に残った。淋しがりやなのであろう。
|
いま、添田耕心は、カンナの会を主宰しているが、カンナは仮名でもあり、漢和でもある。大学院のころから、どうしても中国ものが好きになれなくて、かつ、畏友中村伸夫の中国的な書線へのコンプレックスもあって、漢字かな交じりの書を目指すようにもなった。今井教授もそれも大事なジャンルだからと応援してくれた。かなでは、村上翠亭教授に寸松庵色紙などの指導を受けた。
大学院を出てからは私立高の非常勤講師等をつとめながら今井凌雪主宰の雪心会の錬成会にも通
って出品作などを見てもらった。日展に初入選したのは昭和五二年(一九七七)、草野心平詩の「窓」という詩だった。青山杉雨が、「おもしろい」と言ってくれたのが励みにもなった。ックスもあって、漢字かな交じりの書を目指すようにもなった。今井教授もそれも大事なジャンルだからと応援してくれた。かなでは、村上翠亭教授に寸松庵色紙などの指導を受けた。
カンナの会では、本当に書きたいことを、それぞれに大事にしていきたいという。見る人に見破られるような物欲しそうな書はかきたくない。それは、すでに単なる技術としての書ではないであろう。それぞれの生きていく姿そのものが、書というかたちを通 じてあらわれるもののような気がする。だから、カンナの会は小さな集まりであるが、本当に気持のよい会である。「三割は調和体(読める書)を出すように」などという公募展の騒々しさとは別 世界である。それが、書本来のあり方ではないだろうか。
〈略歴〉 1955年生。 出-鹿児島。 師-今井凌雪。 |
|||