書人探訪21

  -出会いの旅- (39)

   七澤 象聲

   
    
文・田宮文平

   
           
  
          七澤象聲 詩
   179×192

 

 七澤象聲は、昭和37年(1962)に静岡県立沼津工業高校の機械科を卒業すると日本鋼管(現JFE)に就職した。「鉄は国家なり」の時代で、戦後日本経済の高度成長を支えたエリート企業である。  
  横浜に配属された七澤象聲の仕事は、専ら図面書きであった。それで上司から言われたことは、字が下手だから書道を習いなさい。ということだった。ちょうど寮の近くに松岡東庵がいたので入門を願い出ると、「自分はもう齢だから若い人はとらない」と言って、同じ書壇院所属で当時売り出し中の新世代の西川万象を紹介してくれた。
  しかし、行ってみると習字とは異なって行き成り十七帖(王羲之)や高貞碑の臨書であった。それで書いている文字もちんぷんかんぷんで、これは漢文を余程、勉強しないと書も分からずじまいになるとおもったという。当時の西川門には、いまや、財団法人書壇院の常任理事をつとめる飯山素木や、評議員の阿部跳龍らの大東文化大学出の若い人たちがいた。齢が近いこともあって、彼らと話していると、何か書がおもしろそうだとおもうようになった。特に飯山素木には影響を受けたらしい

 



七澤象聲 詩
 200×55


一方、会社は高度成長期で景気もよく、余暇にはヨットやスキーなど楽しく過ごしていた。しかし、職場に
 

は東大卒をはじめとするエリートが沢山いて、対等にやっていくのは大変でもあった。そんなふうにして三年間を過ごすうち、遂に退社して大東文化大学中国文学科に入る決意をするのである。書は西川万象師に就いているので、あくまで漢学を勉強するつもりで、書道部にも入らなかった。多くの学生が、松井如流、宇野雪村、青山杉雨、熊谷恒子などの名物教授に憧れをもっているなかで七澤象聲の存在は異色であったにちがいない。早速、主任教授の真田但馬に自宅に呼ばれて、「社会人を経験した学生は、とかく途中でやめるが、四年間をやり通 せ」と喩されたとい。  
 真田教授は、口で言うだけでなく課外授業もしてくれた。楊守敬の平碑記にはじまって、数多の題跋を指導してくれた。しかし、三年生のとき亡くなり、卒論の担当は松井如流教授となったが、幸いにも「黄山谷/その学書の変遷」はトップで合格した。  
  大東文化大学卒業後は、富士宮市に帰り、厳父七澤史聲を継いで書で身を立てることになった。雅号の「象聲」は、西川師と厳父の号に由来するというわけである。  
  西川門では早々に手本は無くなり、龍門造像記から王鐸、傅山、何紹基、趙之謙など片端から習った。また、富士山を巡る縁から山梨の内藤香石に篆刻、刻字を師事した。しかし、内藤師は技術的なことは一切言わず、とにかく「字入れ千顆」をすすめた。篆書は当初、専ら呉昌碩、さらに篆刻の勉強は呉譲之、そしてのちには稠散木に傾斜した。七澤象聲は、書でも刻字で も近来、金文を土台とするものが多いが、その源流は内藤師に就いた篆刻が発端で、やがて殷周の青銅器の銘文を研究して習得した。西川万象は専ら行草書を得意とする人であったから、書風を広げる意味でも内藤師に就いたことは幸いであったであろう。  
  書壇院展では漢字部に属し、内閣総理大臣賞となった全紙二枚継ぎの四幅の書は王鐸風のものであった。このように書壇院展でも順調であったが、当時、書壇院は書壇事情から日展、毎 日書道展に門戸を閉ざしていた。それで七澤象聲は、いずれにも漢字書を出さなかったが、内藤師の関係で日展には篆刻を、毎日展には刻字を出していた。第30回毎日展で刻

 

字部で準大賞(グランプリ)となったのには、そのような経緯があるのである。
 
    若山牧水 歌  47×34
 
  しかし、毎日展が読売書法展と分裂したあと、書壇院が毎日展にカムバックすると、書壇院には刻字部は無く、あくまで漢字書が主力であったから、刻字部審査会員の七澤象聲の立場は微妙なものとなった。書壇院展では、あくまで漢字部育ちであったからである。しかし、第五六回毎日展からは漢字部への移籍が認められたというから本来のかたちになったということであろう。  
  七澤象聲は、昭和五二年(1977)1に日本青年書法家訪中団の一員として訪中して以来、中国との縁が深い。それで数々の書展、刻字展に参加してきたが、平成八年(一九九六)には、北京の中国美術館において「書画金石展」の壮大な個展を開いた。これは帰国して富士美術館でも開いている。  七澤象聲の書、篆刻、刻字については先にも触れたが、若い時代に静岡の望月祥堂に南画も習った。その伝統の様式には長くは付いて行けなかったが、七澤独自の絵の世界を切り開いたのである。  
  平成15年(2003)には、60歳を期して地元の富士市文化会館で詩・書・画による「富嶽百景展」の大個展を開いた。富士に因む歴代の詩歌を素材としたものだが、みずからも「蓮峰南麓有凡児」の七言絶句等を詠み、詩書画三絶の伝統を現代によみがえらせた。二一世紀期待の書人である。


〈略歴〉 
1934生。  
出身- 静岡。 師-西川万象、内藤香石、望月祥堂。毎日展審査会員。(財)書壇院理事。游神会主宰。

 

 

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