書人探訪21

  -出会いの旅- (38)

   鈴木 春朝

    文・田宮文平

   
           
  
      劉 基 詩  
      (第35回日展)2003

 

 一族に書に通じた人がいる場合ならともかく、はじめて書を習おうとするとき大概の人は誰に就いたらよいか分からないにちがいない。「三年習うより三年師を選べ」とはよく言うが、師が見分けられるくらいなら初心者ではないのである。  
  そういう意味では、鈴木春朝が昭和25年(1950年)、中学二年生のとき殿村藍田に巡り合ったのは運としか言いようがないであろう。  
  鈴木春朝の厳父は根っからの職人で、宵越しの金は持たないという江戸っ子気質の人だったらしい。それで戦争に敗けても何か日本的なものを身につけていなければいけないという考えの人だった。長男の春朝は、はじめ筝曲を習いたいとおもって、父に連れられて松坂屋に行ったが、戦後のこととて琴は売っていなかった。そんなとき江戸川の最勝寺(目黄不動)に殿村藍田が復員して書を教えに来ることになった。同じ瑞雲書道会の宮下大鳳が檀家で紹介したのであった。  
  お琴がダメなら習字ということで、兄弟四人が通うことになった。殿村藍田が、新世代の書人として嘱望されているとは露知らないことだった。しかし、兄弟四人のうち結局、書で残ったのは鈴木春朝だけだったというから、それは筋があったのであろう。  



第20回読売書法展
2003 

  はじめは何紹基を半紙に書いてくれた。いわゆる習字的発想は藍田師にはなく、言ってみれば、いま自分が習っているものを教えたにちがいない。だから、学校の書道とは全然違って困ったこともあったようだ。何紹基につづいては蘭亭叙、米慳 、張瑞圖などをつぎつぎに習

った。それに賞を取るなら学生部に出してもよいが、勉強するなら一般 部がよいという主義で、謙慎展には専ら一般部に出品した。徳野大空が亡くなってから殿村藍田に就いた板倉境外が、うらやましがったのも無理もない。  
  習いはじめて10年ぐらいは手本を書いてくれたが、あとはなし。手本を書いてくれると言われても断わるぐらいになれ、と叱咤された。それで法帖や藍田師の作品集をコピーして研究したり、原寸大に拡大して貼り合わせたりして条幅を書いた。蘇東坡をベースに横一二尺の大字を書いて謙慎展に出品したこともあった。
  殿村藍田師が、東京古川橋の畳屋に住まわしてもらっていた独身時代は、社中の人数も少なく家族的だった。鈴木春朝は一八歳で厳父を亡くしたこともあって藍田師を父親のように慕った。事実、結婚のときには親代りになってもらったほどである。その後、師は鎌倉の佐助、さらに二階堂へと移るが、用事があって電話が掛かってくれば直ぐに出掛けて一度も断わるようなことはなかった。鈴木春朝は、書で自立して生活するようになって、すでに20年以上にもなるが、それまでもネクタイ作りなどの自営業だったので、時間のやり繰りは自由だったのである。  
  殿村藍田は天才肌で感情の起伏が激しく、なかなか、常識の通用しない人と言われてきた。日展の出品作などでも何度も見てもらっているのに、いよいよ締切の日になると、「何だ!、これは」と言って破る。それでやめてしまった人も少なくない。鈴木春朝にそれを問うと、「そんなことを苦労とおもったことはない。それほどに自分たちのことを考えてくれているのかとおもうから」という答えが返ってきた。何しろ少年のころから就いているから、おしゃべりしている子どもを殴るなど日常茶飯事だったらしい。下駄 をきちんとぬがないと、たちまち雷が落ちた。  
  ともかく、そうやって公私に渡って鍛えられて、日展には昭和32年(1957)、二一歳のときに『杜甫詩七絶』で初入選



(第63回謙慎書道会展)
   2001

、昭和44年(1969)には毎日展準大賞(グランプリ)、昭和52年(1977)、昭和60年(1985)には、日展でそれぞれ特選を受賞して作家としての立場を確立した。  
   鈴木春朝は、碑学系のイメージの強い謙慎書道会にあって、いまでも王鐸や傅山などの行草系のスタイルで一貫している。それは、まさに藍田師の流儀をうけつぐものだが、碑学系の資料は本当の姿が分かりにくいと敬遠し、肉筆こそ、本人の書いたそのままなのだからと帖学系に徹している。  そうは言っても、藍田師は、漢字以外にかなも書いたし、画も描いた。それで、ときには、「百人一首ぐらい書いてこいよ」とも言われたらしいが、漢字一つでもおこられているのに、それどころではなかった。だから、調和体も時代の要請であることは重々承知しているが手を染めていない。これからも藍田師の書風や考え方を土台として個性を加えていきたいという。そこには、新しいものは直ぐに古くなるのに、古典は何百何千年経っても変わらずに残っているという師ゆずりの哲学があるようだ。  藍田師没後の継承については、とかくの風評があったが、いま采真書社として一門を束ねているのはやはり人柄であろう。納骨の際、分骨してもらって毎日、心経を唱えて師を偲んでもいる。




〈略歴〉
1936生。 
出身-東京。 師-殿村藍田。日展会員、読売書法会常任理事、謙慎書道会常任理事。采真書社代表。

 

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