書人探訪21

 -出会いの旅- 
(37)

小川 秀石

   
文・田宮文平

 

 

   (第30回記念玄潮会大作書展)1997

 

 これまで、いろいろのタイプの昭和二桁世代の書人を採りあげてきたが、今回の小川秀石は、なかでも数奇な運命を辿った一人であろう。  

 小川秀石の生家は、東京浅草で酒問屋を営んでいた。七、八人も使用人が居たというから大店であろう。そこで小川秀石は何不自由なく育ったが、五歳のとき父が出征、その後は母親が細腕一本で切り盛りするようになった。しかし、次第に空襲が激しくなり、夜ごと防空壕や公園に避難する日がつづいた。何しろ配給制の責任を負っているのだから一家で疎開することもできなかった。また、母は子どもを一人で疎開させるようなことはできないと肯んじなかったが、ある朝、騙すようにして本家のある新潟の小国へと一人連れ出すのである。  
 

  しかし、その後、小川家にはつぎつぎと不幸が襲うことになる。出征した父は行方不明となり、母も空襲で生死不明となった。小川秀石は、ついに戦災孤児となってしまったのである。身寄りのなくなった小川秀石は、戦争が終っても東京へ帰ることもできない。本家も当初はよかったが、世の常で戦争が終結しても、いつまでも居られてはよい顔をしない。それで二二歳で上京するまで疎開先を転々としたらしい。  
 

  現在の明るく穏やかな小川秀石からは想像もできないことだが、この間はまったくの孤独で、自然だけに親しんだという。二〇〇四年に五年振りに開く第二回の個展のテーマが越後新潟の大地や自然であるのは、そこに青春のおもいがあるからであろう。今回、もっとも大きな「山月」の書は、横八メートルもあり、上越国境の谷川連峰をイメージして「山」の古代文字を書いた作である。あの連峰の向こうには幼い日の数々の想いが存在するということであろう。それは、この書人にとってアイデンティティそのものにちがいない。  
 

  中学校、高等学校では野球に打ち込んで、それまで村の子どもとはほとんど遊ばなかったのに漸く仲間ができた感じだった。日本人離れした体躯は野球に出会うことで才能を発揮したのである。

寒 巌   (第34回玄潮会書展)2001 

 

しかし、なるべく早く東京へ出たいとチャンスをうかがっていた。高校を出てからは大工をしながら建築家を目指した。ところが、その大工仕事として行った東京向島の豆腐店の主人が新潟の人で、ついついそこに落ちつくことになってしまった。建築志望変じて豆腐屋になったわけだ。その三島屋から暖簾分けしてもらって開いたのが小川秀石の店で、いまは令息が継いで評判となり、テレビ等でもよく紹介されるまでになったのだから人生航路は分からない。  

 

 さて、時間をまた戻すが、豆腐店として自立してから息子にも尊敬されるような人間になりたいとはじめたのが書道だった。はじめは通 信教育だったが、やがて近所の縁で紙屋鶴峯(現玄潮会副理事長)を知った。それで王羲之や空海など、書に古典というもののあることがはじめて分かった。昭和三〇年代に当時、新興の東京タイムズ書道展に応募するうち西島東観師に出会うことにもなる。何か書いて持ってきなさいというので、はじめたばかりの蘭亭叙を見てもらった。それで蘭亭叙を上げてから九成宮醴泉銘や空海等をやったが、普通 の字を書くなら米蒂がよいと、これを徹底して習った。  西島東観は、徳野大空、木村蒼岳を継いで玄潮会の会長になった人で、小川秀石も玄潮に所属するようになり、現在は副理事長をつとめる。  

 また、玄潮会が毎日書道展に参加したので、小川秀石も秀作賞、毎日賞を受賞して審査会員となり、いまでは大字書部の有力作家の一人として活躍している。  古典学書は、その後、劉石庵からさらに大字書の骨格をつくるために専ら顔眞卿へとすすんだ。このようにして小川秀石の書は、その体躯にも象徴されるようにスケールの大きなものへと展開してきたが、一方、極めて繊細で抒情的な一面 もある。それは徳野大空直伝の博文堂製の純羊毫筆にも関係があるにちがいない。徳野大空は現代の書人で、もっとも羊毫に拘った人で、奈良の博文堂に出向き、みずから一本一本、毛を選んでは筆をつくってもらった人である。昨今の山馬筆の流行などをおもうと、いまや、昔日の感さえする。

舞  (第50回毎日書道展)

 

 小川秀石の書が、第二の故里ともいうべき、疎開先の越後新潟に深く関わることはすでに述べた。こんどの二回目の個展でも「山月」の超大作のほかにも、「荒波・波荒」、「大山鳴動」、「大樹」、「清流」など、あたかも帰巣本能のように孤独の少年時代、唯一の話し相手であった大地や自然へと回帰している。そこには東京生まれの人にもかかわらず、都会の風物は出てこない。小川秀石の書の内含する純朴さや温かさは、やはり越後新潟の山や海や川に育まれたものなのであろう。  

 そして書人として著名になるに従って、恩讐を越えて新潟の人びととの交流も盛んになっているようだ。小川秀石の書に幸いあれ、である。

《略歴》 1937年生。 東京。 西島東観。 毎日展審査会員。玄潮会副理事長。矢口墨泉会主宰。

 

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