|
書人探訪21 -出会いの旅- 柳 碧蘚 |
|
|
|
柳碧蘚は、霸王樹社主宰の歌人であり、日本芸術院賞受賞の書人であった松井如流門の新世代作家の一人である。同門の先輩には北村九皐、三田清白、河東象外、鈴木桐華、野口白汀らがおり、同世代には尾崎學、河東蜂城、清田皎月らがいる。
柳碧蘚は、中学生になって手島右 系の中島九仙の書塾に入った。普通
なら受験のために書塾をやめるころではと問うと、「書がきだった」という明快な答えが返ってきた。
大東文化大学第一高等学校に進むと、そこには永井暁舟がおり、古典による本格的な指導によって書の奥深さを改めて知った。また、一年上の書道部には、のちに四人展(平成元年、五年、一〇年)を組むことになる尾崎學、河東蜂城、清田皎月がいた。しかし、当時はまだ、かならずしも書家になるつもりはなく、海外旅行に関心があったので、商社マン、またはシェフ志望だった。シェフは遠戚
に名にし負う美家古鮨があり、また、大卒が一生の保証である時代ではなくなったからのようだ。
大東大第一高校を卒業するとき、永井暁舟は大東文化大学へ進むことを強くすすめた。それで引きつづき書を教えてくれるのかと問うと、大学には立派な先生が一杯いるからゆっくり考えればいいということだった。事実、当時の大東文化大学には真田但馬を主任教授に松井如流、宇野雪村、熊谷恒子、青山杉雨、今関脩竹ら錚々たる教授陣がいた。 あるときキャンパスで擦れ違った松井教授に会釈すると、ソフト帽を取って丁寧に挨拶された。その人柄にいっぺんに惚れこんで、河東蜂城の伝手で入門したのであった。はじめは日下部鳴鶴、吉田苞竹系統らしく鄭羲下碑、書譜から習った。昭和四二年(一九六七)、大学二年のとき、自分流に金文一字を書いて毎日展に出品したら行き成り秀作賞になった。当時の秀作賞は現在とは重さが全く異なる。聞けば手島右 が推挙したのだという。如流師は、「ぼくは黙っていたよ」とただ笑うばかりであった。翌年もまた、金文一字を書いて出品すると、こんどは毎日賞になった。ちょうど二〇歳だった。その翌年には日展に一字書が初入選した。
こんなことが可能であったのは、柳碧蘚に早熟の才能があったことはもちろんだが、松井如流門が何よりも実力主義で開放的であったからでもある。このころには、書の専門にすすむことをそろそろ考えるようにもなった。そんな柳に在学中、目をかけてくれたのが青山杉雨教授であった。ちょうど一年上の清田皎月が卒業して大東文化大学書道文化センター(現書道研究所)の職員になっており、その所長が青山杉雨であったのも幸いした。 |
あるとき、青山杉雨主幹の『書道グラフ』誌が、三廻神社の楊守敬碑など、東京都内の書碑を特集することになり、拓本採りの手伝いをした。そのとき車の運転手役として付いてきたのが、新倉姪齋で自分もやりたそうな顔をしていたというからおもしろい。これを契機に新倉は『書道グラフ』の拓本特集に中心的な役割を果
すようになるのである。 松井如流門では大東大卒業後、開通
褒斜道刻石を最後として臨書手本は書いてくれなくなった。それで如流師の書をはじめ、西川寧、手島右 、青山杉雨等の書を追っかけながら研究をすすめた。松井如流は、西川寧とともに第二次大戦後、『書品』誌を創刊し、現代書学の発展につくした人である。それで柳碧蘚も書学の研究を迫まられる。同門の先輩に西林昭一がいたが、あたかも台湾の故宮博物院に一年間、研究のために留学することになり、そのため跡見女子大学の代講を依頼された。学習院も含めて大学の講義のためには書学の研究は欠かせない。それで小松原高校の後任に永守蒼穹が赴任してきたのも、いまや、新世代同士であることを考えれば縁とも言うべきであろう。
柳碧蘚は世に出るのが早かったぶん、書人としてのイメージが定着し、近来、ともすればマンネリに苦しんでいるかにも見える。それで、これからの研究課題を聞くと、二つのことを考えているという。一つは一般 人から親しまれ欲しがられるような書をかくこと、もう一つはまったく逆に徹底して古典的な方向を研究すること。そこには松井如流、赤羽雲庭、山内観などのイメージがあるようだ。リフレッシュを期待したい。 《略 歴》 |
|||