書人探訪21

  -出会いの旅- (35)

 谷村雋堂 

     文・田宮文平

作品名
no1.臨韓仁銘
   (第52回書海社展)2003
no2.蘇東坡詩 
   (第19回読売書法展)2002
no3.孟浩然「臨洞庭」
   (第20回読売書法展)2003  

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 何しろ祖父が秀麗な楷書で一世を風靡した松本芳翠で、尊父が女婿として財団法人書海社を継承し、書学者としても著名な谷村憙齋というのだから、谷村雋堂が母堂二葉さんのお腹のなかにいるときから書を習っていたとおもっても不思議はない。ところが、事実は小説よりも奇なりで、小学三年くらいまでちょっと習字をやったくらいで、成人するまで書などやったことはなかったという。出版界に投じた長男に対し、二男の雋堂はおじいちゃん子だったが、芳翠も書など奨めることはなかったらしい。有名な書家の孫ということで、文字に対するコンプレックスはあったが、一緒に暮らしていても祖父の偉さを身近かに感じることはなかった。家族というものは案外、そんなものなのであろう。  

 谷村雋堂がすすんだのは千葉大学工学部(画像工学)だったが、祖父松本芳翠が、もともとは薬剤師志望で明治薬学校に入った理科系の血筋は、こんなところに伝わっているのかもしれない。大学時代は、例の成田空港建設をめぐる三里塚闘争など、紛争の真っ盛りのときでなかなか大変だったらしい。在学中は教育学科も受講し、卒業後は尊父に倣って教員を志望したが適当な職がなく、書海社の機関誌『書海』の編集を手伝うようになった。それでおのずと書も四級から出品し、初段まで行った。  

 そんなころ書海社と台湾の人たちで書展を開こうという話が持ちあがってきた。台湾に亡命していた中国の著名な書家である于右任と、松本芳翠との戦前からのつながりから、これを取り持つ人がいたのである。それで谷村憙齋が、その打合わせで台湾にたびたび出掛けるうち、これも著名な書画家である江兆申らと親しくなり、息子が書を志すなら台湾に留学させてはという話が俄に出て、青山杉雨も賛成して本人の知らないうちに忽ちに決まってしまった。それで台北師範大学語学センターに入学することになった。すでに日本と台湾との国交は途絶えていたが、新中国にはいまだ、そのような受け入れ態勢がなかったから、みなここで語学の修得をしたらしい。

 江兆申の故宮博物院での大学院の授業は、国宝級の書画が教材だった。江先生の車に乗せてもらってカバン持ちのようなかたちで出席したというのだから、こんな恵まれた話はない。また、日曜日の故宮博物院閲覧室で江兆申が書画をかくのを勉強した。日本式に教えるということはなく、江先生が書くのを見るのが即勉強であった。台湾では江兆申のほかに曽紹杰や呉平からも篆刻や篆刻学を学んだ。また、この時期、二玄社の故宮所蔵の書画の名品の複製の仕事と重なり、青山杉雨ら権威者の往来が盛んで、いろいろの話を聞き、昔とった杵柄で色校正に立ち会ったりもした。こんな経験は滅多なことでできるものではない。

 

 当時の台湾には文人世代最後ともいうべきサロン的雰囲気があり、もう少し留学をつづけたかったが、一九八〇年に三年三ヵ月の滞在を切りあげて帰国した。二七歳から三〇歳という何でも吸収できる時期に留学したことは貴重であろう。  帰国して間もなく、第二次大戦中に行方不明になった西冷印社の呉昌碩像(朝倉文夫作)の原型が残っていることが分かり、これを贈呈しようという話が持ちあがった。小林与三次読売新聞社長を団長に青山杉雨、村上三島、小林斗厘らが同行した。これが読売書法展の創設につながることは、昭和書壇史の秘話であるが、それについてはいまは触れない。このとき通 訳を兼ねて誘われたのが谷村雋堂で、はじめての中国大陸行となった。「雋ちゃん」と言って可愛がってくれた青山杉雨のお声がかりであったにちがいない。最後の日に書会があって錚々たる人たちが書いたあと、随員も書けということになった。谷村雋堂が撥鐙法で筆を持つと、中国側からも日本側からも驚きの声があがったというからおもしろい。台湾では書画ともに中国式に習っていたのである。

 西冷印社には、当時、沙孟海、王介嘲のような文人世代がおり、なかなか、楽しい中国行であったが、現地では北京語がまだ、かならずしも普及していなくて通 訳には苦労したようだ。また、折から曽侯乙墓の発掘が話題だったが、谷村にはその予備知識がなく、同行した西島慎一氏の救けを借りて何とか凌いだというのも忘れられない想い出となっているようだ。  

 谷村雋堂は、否応もなく書海社の三代目として運命づけられている。尊父の谷村憙齋は、奈良の旧制郡山中学時代に中谷釜雙に隷書を習って旧東方展にも入選した人だが、無垢から出発した谷村雋堂にとって祖父松本芳翠を避けて通 るわけにはいかない。九成宮醴泉銘など初唐の楷書を中心に高貞碑や六朝のものを手掛けてきたのもそのためである。草書は節筆の発見で名高い芳翠書を踏づけるためにも書譜は欠かせない。隷書は乙瑛碑から礼器碑、史晨碑等へすすんでいる。詩は台湾時代に韻文で習ったが、いまは石川忠久氏に就いて漢詩をつくっている。松本芳翠にも自詠の詩が多いのである。

〈略歴〉
1950年生。 
出身  東京。 
師   谷村憙齋、江兆申。
読売書法展理事。
東方同人。
財団書海社理事(事務局長)。

 

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