楢崎華祥 書展
白寿に向かって 一書一花


●2月26日〜3月7日
●東京銀座和光6F 和光ホール

 

 「万多阿介所免之 前髪農…」と変体かなを絶妙に配しながら、筆鋒を吊上げて厳しい線を突き入れた島崎藤村『初恋』を大きくピックアップしたが、とても97歳の書く線条と思えない凛とした張りと墨情がある。本作は、近日開催される銀座・和光の「楢崎華祥書展」に出品される素紙と墨と筆の妙味を指向した1点。「春想」の淡墨の情感表現も然りだ。色料紙への展開も夫々味わい深い。
 50数点の作品、「私の生涯の集大成と思って臨みました」に70余年の書人生の重み深みがこもる。
 楢崎華祥さんは、1924年(大正13年)東京都文京区で三人姉妹の次女として生まれた。両親は共に香川県出身で、教育者。次女の特質というか、幼い頃から活発で負けず嫌いだったと聞くが、書道は小学3年生から個人指導を受けている(丹羽海鶴門の水島望鶴先生)。
 書に興味を覚えたのは、東京女子高等師範学校附属高等女学校時代。ピアノ、テニスに興味を持ち没頭したが、同校で教鞭をとっておられた尾上柴舟の書風に憧れて専攻科国語部(現・お茶の水女子大学)に進んだ。授業では、短歌、文学史、書法(主に和漢朗詠集)を学んだ(柴舟師の「ダジャレ」も含めて)。卒業は終戦の1年前、桜蔭学園高等女学校の教諭となり教職を続けながら尾上柴舟創設の栴檀社に所属して書活動を続けたが、やがて大きな転機が訪れる。柴舟師の逝去である。
 同門の高弟であった杉岡華邨氏が京都の水穂に移籍されたが、その後の華邨氏の特選受賞作に感動し、楢崎さんは杉岡門「臨池会」に正式入門。折しも水穂の一社中から臨池が独立した年で、入門早々に最高賞「ヌーベル賞」を受賞している。それから奈良通いがスタートした。東京〜奈良の距離は本当にキツかったと当時を振り返る。しかし、この昭和35年近辺の転換が今の楢崎華祥を確立したと言って過言であるまい。「栴檀社の頃は和漢朗詠集こそが古筆と思っていましたが、中務集、一条摂政集、寸松庵色紙、継色紙などの古筆の素晴らしさを体感する契機となりました。その後の針切、香紙切は現在の私の筆法の基本に近く、構成に寸松庵色紙、継色紙等を加味しています」との言葉が印象的だった。
 そうした堅実な努力と謙虚さで1988年、特選受賞。二回目の特選受賞の1993年には、皇太子妃雅子様の書のご進講役に選ばれるという栄誉を賜っており、皇后になられた今もつづいておられる。
 「白寿に向かって一書一花」は明晰で前に向かい続けた楢崎華祥の姿そのものであろう。 (松)

 

「真 珠」海の底…  (40×50cm)

二曲屏風 「晶子逍遥」より
 夕焼けの… (50×10cm)

 

 

「初 恋」 まだあげ初めし前髪の… (51×77cm)

「梅 花」 万代に… (14×17.5cm)

 

 

「木 蓮」 木蓮の…(97×27cm)

「春 想」 雪の富士…(90×27cm)