房総に生きた書家
浅見錦龍 生誕100年展
― 一本の線に託した軌跡、再び―


● 1月25日〜3月21日  
● 千葉県立美術館

 

 2015年、92歳で死去した浅見錦龍の生誕100年展が、千葉県立美術館の企画展としてロングラン開催された。1933年11歳時に書かれた「克忠」を皮切りに、晩年88歳の破体「良寛詩」まで巻子作も含めた37点と陳列台には帖臨書など約20冊、愛玩筆墨硯、揮毫表札、印譜印材、草稿などの公開と多彩な展観内容となった。
 錦龍の書はそのときどきでいろいろの顔を出した。年代順に展示された今展作にそれがよく窺える。書家たるもの、自風の確立と一家を成しえた先は安泰に浸かり、都度の発表作に何らの変化も見られないのが常なるも、浅見錦龍はとことん変わっていった。それは何故なのかと考えたとき、次の言葉が浮かんだ。「究極を言えば、一本の線を引いてそれが残ればよいのです。その中には書の鍛錬の度合いもあれば、全生活のもろもろのすべてが出るんじゃないでしょうか」(芸術新聞社刊「墨」76号インタビューより)つまり錦龍の書家人生にとって「書は線の芸術」という最大の目標値を掲げ、常に挑戦していった軌跡がこれだけの作品変化につながったのではないか。更には時代に抗う精神もものを言ったのだろう。例えば王羲之より獻之を好んだこと。蹴海移山の荒々しさが心をつかんだ。手島右卿に師事し、その高い技巧を学んで独立書展にも出品していたが、少字数書を中心とした現代性の台頭に抵抗を感じ、日展出品作とともに伝統様式に回帰していったこともその一つだろう。掲載した1960年の日展特選作は丁度そのころの代表作である。青墨色を意識して墨溜まりと滲みを見せ、奔放に動く筆はまるで獻之を思わせる。60年以上の歳月が過ぎてもこれだけの墨色美を保っていることは当時の二番唐紙目にかなり鋒が食い込み、発墨を誘因した証左と見える。右卿師を尊崇しつつも、体制に迎合することなく我が道を突き進んだ錦龍。やがてその書は良寛へと導かれる。40代、50代に書かれた細線の連綿草をはじめ、日展菊華賞受賞の大胆な潤渇行草、66歳で受賞した日展会員賞の作においては、それらの要素が見事に融合した躍動と潤いの行草三行作となる。そして次に訪れたのが大量の墨を注ぎ込んだ黒々とした線の表出。これは60代で既に顔を出していたが、80代の晩年には顕著に見えてくる。「丁當」はその典型作だ。当時、日展会場でこの作を見た時は驚いた記憶がある。また当時の小紙掲載筆者評を抜粋すると、「今尚溢れる情熱をそのまま紙と墨にぶっつけた。濃墨の墨溜りが観者に迫ってくる。」とある。その思いは今も変わらない。
 「一本の線を残して死にたい」そのための作風変貌。こんな大きな書人が房総に生きて、大きな足跡を残してくれた。現存書家にとって、そして未来の書人にもつながる道標を確信した。(篠原)

 

丁 當  第41 回日展
(2009 年・87 歳)1800×780

梁川星巖詩「九十九里」
第3回日展特選苞竹賞(1960年・38歳) 2020×310×2