第77回謙慎書道会展より


謙慎書道会顧問
書人社主幹


梅原清山

 

  第77回謙慎書道会展が東京都美術館と池袋サンシャインシティー・ワールドインポートマートの二会場で開催され、都美術館での初日二回のデモンストレーション(席書揮毫)と、会期中三日間・六回のギャラリートーク(池袋会場は一度のギャラリートーク)で盛会となったが、その膨大な出品作中、梅原清山顧問の作品「雋器」を巻頭紹介させていただく。(役員の注目作は9面カラーで紹介)横長方の紙にどっしりと二字を配置して凛然とした存在感を醸しており、正に頑固さと威厳を放つ清山六朝風楷書の典型といえよう。「雋」はシュン、センとも読み、「最高に優れた、優秀」の意。従って「雋器」とは大器晩成をなすような優れた人材、すなわち逸材をいうのであろう。昭和時代に綺羅星のごとく存在したカリスマ的な書家の殆どが鬼籍に入り、場に威厳を持たせられる書家は梅原清山氏ほか数人となった。その憂いと人材待望の思いが撰文となったのであろうか。偉大な師・青山杉雨の追慕と今後の決意が本作「雋器」の引首印「師槇軒」と落款「襲明」に込められていると思える。款に游印を使用すること稀にあるようだが、この襲明の意「大きな道を明らかにすること」と本文、印首印が揃ってはじめて清山氏の意図する作品となったと思われる。
 梅原清山氏は大正11年横浜生まれ。今93歳になれる。書道に関わりを初めてもったのは入学した横浜国立大学(当時は横浜高商)でという。学校に通 っていた時、小学校の同級生が競書雑誌を持って勧誘に来て、無理やりに入会させられたのが切っ掛けで、上達しだしたら面白くなってきて、いつの間にか書道が身から離れなくなっていた。競書誌を出版し、書人社を創設したのが36歳の時。その後すぐ縁があって青山杉雨門に入会するのである。書人社が今も太玄出品者と謙慎出品者が混在するのは、そうした経緯があるからで、清山氏も25年程前まで特別会員として謙慎に出品されていた。青山師の逝去後は成瀬映山と共に師の社中である「槇社文会」を継承、分裂劇の後は今年顧問として後進に託すまで鶴文社の会長として師継の責を果した。(松原)