第50回水穂書展より
―京の雅のたえまぬ追究―
文化功労者
日本芸術院会員
日比野 光鳳
水穂会が50回の大きな節目展を迎えた。
筆者が初めて水穂書展を展覧させて頂いたのが、創立者の父・日比野五鳳氏が逝去された翌年の昭和61年の8月、第24回展からで、光鳳氏が会長を引き継いで2回目の展覧会であり、確か日展の審査員就任3年後であったと記憶する。
それから26年、書道界で初めての父・子の日本芸術院会員・文化功労者作家という偉業を達成され、かな書界の第一人者として自風の域を極めつつある。しかし、一見順風万帆にみえるその歩みだが、昭和かな三絶の書聖と称えられた五鳳翁を父に持つプレッシャー、あらゆることが父と比較される日々が延々と続いたことは想像に難くない。そんな中、光鳳氏は、五鳳かなの真髄を受け継ぎながらも、京都で生れ京都で育くまれた自分自身の感性を前面に出した現代表現のかな「京の雅」をテーマにかかげて一心に制作に没頭するようになる。あっとおどろくような変化でみせるのではなく、蕩々とした筆波の存在感に起承転結を盛り込んで詩意を込める。交響曲のような構成の作品を発表するようになり、それが光鳳調として世評の眼に定着してくるのである。
そして、その思いが第29回日展で実現する。島木赤彦の三首を起承転結に構成した「三日月」での内閣総理大臣賞の受賞である。その自信と感覚が父五鳳翁からの呪縛を拭い去り、次年の日展で開花、今度は古今和歌集の紀貫之の歌三首をよりオーソドックスな緩やかな山形(基調は寸松庵色紙)でゆったりと視点をつないだ作品「花」が日本芸術院賞を受賞する。折しも古稀70歳であった。その一年後には現代書道二十人展入りを果たし、書道界に個の立場としての確固たる地位を確立するのである。それ以降も光鳳氏の「京の雅」を追究するテーマは一貫されており、大病された後、日本芸術院会員就任、文化功労者顕彰後も変わりない。
父五鳳翁が創立した水穂書展の50回展に「創立者 日比野五鳳展」を企画し、その想い一入であったろうと思われる。更なる御活躍を祈念したい。(松)
