歴史の中の「書」24
比田井南谷 『電のヴァリエーション』  田宮文平

 

 

          
 

心線作品第1・電のヴァリエーション 1945年 千葉市美術館蔵

  

 前衛書(墨象)が、抽象表現主義の影響下で生まれたと語られることが、ままあるが、前衛書の第一号作品といわれる比田井南谷『心線作品第一・電のヴァリエーション』は、抽象表現主義の運動がおこる以前の昭和二〇年(一九四五)に制作されているのである。それは近代の書が、中国との二元化から西欧の美術(ファインアート)の概念を導入した三元化の状況のもとで必然的に生まれたということもできる。

 もっとも前衛書(墨象)のエピゴーネンが、ジョルジュ・マチューやサム・フランシス等の来日に刺戦を受けて雨後の竹の子のように流行現象として出現したことを否定するものではない。

 比田井南谷は、古典学書の方法論を確立して、「現代書の父」とも称される比田井天来と、女子用の国定習字教科書の筆者でもあった比田井小琴夫妻の二男(第四子)として生まれた。早くからヴァイオリンの奏者をこころざし、二男の気安さから西欧の美術にも親しんできた。もし、長男の厚氏が早世することがなかったら、書および書の研究者にはならなかったかもしれない。しかし、運命は重文級といわれる尨大な書資料とともに父天来のおこした書研究機関の書学院を継承せざるを得なくするのである。

 この『心線作品第一・電のヴァリエーション』は、現在、千葉市美術館に収蔵されているが、それは書としてよりも現代美術として収蔵されているのではないだろうか。

 比田井南谷は、この作を第二次大戦中、信州に疎開しているあいだに制作した。戦争が終結したあとの新しい書の可能性を模索しているとき、父天来の「迷ったら古に還れ」ということばが天啓のようにひらめき、古代文字に幻想を抱くうちに「電」の文字に辿り着いたのであった。「電」の古代文字は、雨カンムリと申の合成で、申は電光の走る姿である。

 この作品が出来たとき、比田井南谷は、書の新しい可能性に希望を抱いたが、従来の書の姿とはあまりにも懸隔があるため、書の展覧会に発表することには戸惑いを覚えた。それで、この作は義兄の洋画家角浩のすすめもあって、他の第二、第三の試作品とともに現代美術協会展に出品するのである。しかし、これを見た書家の手島右卿や大澤雅休は、書の新しい可能性について大いに刺戦を受けることになった。

 比田井南谷は、天来の子として古典書道にも通暁していて、昭和戦前期にはそうした作品も遺しているが、戦後は専ら「電のヴァリエーション」の延長線上に実験を繰りかえした。そのため既成の書団体には居心地のわるさを感じていたのか、専ら東京銀座の村松画廊や養清堂画廊等で個展活動を行ってきた。

 これら新しい書の実験は、森田子龍主幹の『墨美』誌によって抽象表現主義の人たちにも知られることになった。比田井南谷は、アメリカの美術学校へ招聘されたのを機会に昭和三四年(一九五九)に渡米し、授業を行うとともに制作の拠点をアメリカに移した。この際、近数年制作の作品とともに書学院収蔵の法帖約一〇〇〇点と原拓数一〇点を携行したのである。それが、ニューヨーク・タイムスの美術欄に紹介されることにもなり、代表作の数々が各地の美術館や大学に収蔵されることにもなったのである。

 比田井南谷は、東京高等工芸学校(現千葉大学)印刷工芸科に学んだ人だけあって、作品制作に当たっては、墨だけでなく油彩 やラッカー、写真技術等を多様に応用した。しかし、それらはあくまで書の本質である線と余白(空間)の実験的な追求であった。現代の書だけを見ていると、とかく錯覚に陥りやすいが、書の歴史や文字史は、殷の甲骨文、殷周の金文、秦漢の石刻文字等、実に多彩 な表現をしてきたのである。比田井南谷の書への想像力をかきたてたものも、それらの歴史であった。

 しかし、抽象表現主義の作家たちと交流を重ねるうち、比田井南谷は表現の現象は一見似ていても、そのバックグラウンドがあまりに異なることに否応なく気づかされる。それで晩年は、彼らのために『中国書道史事典』(雄山閣、昭和62年、英文版未刊)の執筆に多くの時間を割くのである。夢は芭蕉ではないが、枯野をさ迷ったにちがいない。


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