歴史の中の「書」6
上田 桑鳩 『愛』  田宮文平
      

               愛    1951年 日展出品  

 2007年は、日展が文展、帝展以来100年になるというので何かと話題になった。日展の現状をどう評価するかは別 として、わが国近代美術の正系に位置してきたことは間違いない。今日、在野団体といわれるもののなかにも文展、帝展以来の系譜から分離独立したものが少なくない。だから、国立新美術館での『日展100年』展には、横山大観や梅原龍三郎らの作品も歴史の証言として飾られたのである。  

  日展への第五科書の参加は、1948であるから60年の歴史である。文展開設の際にも書の参加への打診があったというが、当時の「美術」という概念が今日とは異なっていたためか、大御所の日下部鳴鶴らが辞退してしまったということである。  大正も末の頃になると「美術」の概念も今日と余程近くなり、こんどは豊道春海らが官展への参加を要望するようになる。しかし、明治の小山正太郎、岡倉天心の論争にみられるように「書は美術ではない」と受け入れられなかったのである。1948年に第五科書が開設されるのは、占領軍総司令部(GHQ)の文化政策に危機感をもった松林桂月や朝倉文夫らが、この際、書とも手を結んで伝統芸術を守ろうとしたからである。これには日本芸術院会員である豊道春海と尾上柴舟が書の面 で絶大な指導力を発揮したのであった。  

 日展に書部門が開設されると、豊道春海は、書壇は打って一丸となって参加すべきと奨励した。戦後の荒廃のなかから少しずつ立ち直りつつあると言っても一九四八年の書の応募は、数百点単位 であったのだから、それなりに総動員をかけたわけである。しかし、書壇はいまだ美術界のように官と在野の住み分けが行われていず、しかも戦後の開放的な状況で日展と言えども民主化すべきとの声もあったから書壇は、伝統系、現代系の別 なく参加することになった。  

 そこに降ってわいてくるように登場してきたのが、一九五一年に出品された上田桑鳩『愛』である。この一見「品」とも読める作に『愛』という題名がついていたことから松林桂月ら日展当局は、「こんなもののために書部門をひらいたわけではない」と激怒した。平出品なら落選させればよかったわけであるが、上田桑鳩は比田井天来高弟として新世代を代表する書人であり、日展審査員もすでに経験していたから、事はそうそう簡単には運ばない。そもそもこの作を『愛』としたのは、お孫さんのハイハイするイメージから制作したらしい。その発想は革新的であったが、書は文字を書くものという旧来の常識からは大きくはずれるものではあった。しかし、これに対し、上田桑鳩側は表現の自由と、日展の民主化をもって対抗したから問題は容易には解決しなかった。  

 時あたかも世界の美術界は、抽象表現主義が席捲し、そのストローク性やアクション性が書と共通 するというので、書でも前衛系、抽象系が大いに盛りあがり、問題を複雑にした。これに対して日展当局は強硬な態度をとったから、書部門は再び日展から分離されかねない状況に追いこまれたのである。この間の折衝の経緯はいろいろとあるが、結論から言えば、世界の抽象表現主義との連携に希望を託した上田桑鳩、宇野雪村らは一九五五年、一九五六年に声明を発して、あいついで日展を去ることになる。ここにおいて美術界では昭和戦前期までに解決したことが、漸く書部門でも一段落を見て、日展の書の伝統性が確立されるのである。  

 その意味で、上田桑鳩『愛』は、書の日展史において極めて重要な位置づけをもつ作品であるが、「日展100年」展において、そのような歴史的な展望が行われなかったことは、まことに残念である。もっとも、かつて日展の仮名に絶大な指導力を発揮し、いまもその方法論において影響力をもっている尾上柴舟の書もなかったのだから、事は前衛系だけの問題ではなかった。  かつて西川寧や青山杉雨は、みずからの書作の立脚点とは別に前衛系の仕事を常に注目してきた。それは異質の問題を対極に置いてこそ、みずからの制作もエネルギーをもちうると考えていたからではないだろうか。その意味では、いまも上田桑鳩『愛』は、日展の書に問いかけるものを内含していると思うのである。


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