歴史の中の「書」2
良寛禅師 『天上大風』  田宮文平


凧文字 天上大風  良寛書   45×31cm 
  もう40年近くも昔のことであるが、新道繁画伯の画集を編集したことがある。その際、撮影のためにアトリエに入ると、条幅の書がずらりと掛っていて喫驚した。若い時代には、『スペインの水汲み女』などバタ臭い絵を描いていた新道画伯だが、わたしが伺ったころは専ら黒松をテーマとした幽玄の画風に変わっていた。撮影の終わったあと、改めて条幅の書について尋ねると、「自分は若いころから何百色という絵具を使って理想の色を求めて来たが、遂に満足することがなかった。しかし、見たまえ、この墨の色にはわたしが理想とする色がすべてあるのだよ」と仰った。  

  新道画伯に限らず、岸田劉生にしても、晩年、東洋的な墨の世界に回帰する人が少なくない。その日本人にとって、いわば郷愁のように戻ってくる象徴的なところに位 置するのが、良寛禅師の人と書である。村上三島なども若い時代に王鐸のような脂っこい中国の書に魅かれたが、晩年は専ら良寛をイメージして淡泊な書をかいた。  

  良寛の存在が全国的に注目を浴びるようになるのは、大正期の中ごろ以降のことではないだろうか。それには、後半生をほとんど良寛研究に捧げた相馬御風の一連の著作の果 たした役割が大きいにちがいない。何と言っても早稲田大学で会津八一と同期であり、坪内逍遙、島村抱月らに薫陶を受けた人の良寛論は、これを広めるに大きな力があった。  

  それに時代の空気が、良寛のような生き方を求めていたとも言える。わが国の近代化のなか、自我に目覚めた人たちにとって良寛の苦悩は切実な問題であったにちがいない。良寛は越後出雲崎の名主の家の長子に生まれたが、一八歳のとき突然、家を捨てて出奔してしまう。当時の社会常識では許されがたい落伍者と言われても仕方がないことであったであろう。しかし、時代が変われば、そのやさしさ、清らかさが、社会的にも精神的にも柵にとらわれた人たちの共感を呼ぶようにもなるのである。  

  良寛の書は、ここに採りあげた『天上大風』や、『一二三 いろは』のように童心にあふれた簡朴なものが、よくイメージされるが、実はそうしたものばかりではない。若いころから王羲之の尺牘や、孫過庭の書譜、懍素の自叙帖、わが秋萩帖(小野道風)等を本格的に学んできた人であるから草書の崩しにも熟達している。従って、漢詩などを書いたものは、かならずしも読みやすいとは言えないのである。  

  しかし、歌でも「霞立つ永き春日をこどもらと手まりつきつつけふも暮らしつ」のように平易ななかに格調高く詠んだように、書でも子どもらの凧のために『天上大風』と素朴に書いたり、どうか読みやすい書をとせがまれて『一二三 いろは』と書いたりもしたのである。現在のように書展で技術を競う時代ではないから、そこにおのずと書者の人間性が現われたとも言えるであろう。  

  『天上大風』の凧の書は、子どもにせがまれて書いたというぐらいだから、忽卒の間に書かれたものにちがいない。天、上、大は画数が少なく、風だけがやや多い。天の字だけが異常に大きく、しかも第一画と第二画の間が広く離れすぎている。風もかまえの中の虫が極端に左に寄って一文字だけでは収まりがよくない。落款の「良寛書」の位 置も決してよいとは言えない。それが全体としては、インテリア・デザイナーでもが設計したかのごとくぴたりと収まっているのが不思議なくらいである。そして、このほのぼのとした素朴さは意図してできるものではない。しかし、考えてみれば王羲之の書こそ、アンバランスのバランスの極致であるのだから、それを習った過程でおのずと身についたとも言える。現代の書人でも津金寉仙、赤羽雲庭などは、それをみごとに熟している。書はどこまでも奥が深いのである。

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