今月の課題 「日本の文化とは(3)」 編集主幹 松原 清
応仁の乱以降の戦国時代、死生観「一期一会」の精神を孕んだ茶道は、武家社会に受け入れられ一種のブームを巻き起こしたといってよい。戦乱に巻き込まれた民衆の間にも、宗教的な変遷が起ったのもまた自然のながれであろう。新しい宗教概念である耶蘇(キリスト教)の広がりと一向宗の抵抗は端的なもので、形骸化して尚権益を主張する宗門を残らず焼き打ちした信長の所業の賛否はどうであれ、全国統一という覇業を実現するには避けて通れないものであった。そして、秀吉の桃山時代を過ぎ、家康が全国を掌握して江戸時代に入るのである。江戸時代ほど庶民の文化が花開いた時代はないだろう。士農工商という身分制度が確立し、人々はそれぞれの身分に沿った生活をするようになり、当然身分による棲み分けの異なる文化を育んでいく。宮中では貴族文化の存続が図られ、武家はお家を存続させることが一義となり、朱子学に基づく規範がより強化された。「お家の恥」「武士としての恥」の気風が生まれた。山鹿流の儒学的武士道を批判した佐賀藩「葉隠れ」が書されたが、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」が曲解され、武士の精神的支柱として明治以降、昭和に至るまで降伏を是としない日本陸軍の悪しき軍紀として残った。縛りつけられた農民は別として、商人を中心とした自由な文化・芸能が江戸、京都、大阪を中心に全国の大藩の城下に広がっていく。その背景には鎖国制度があった。産業革命後の世界の情勢からは乗り遅れたものの、歌舞伎芝居、浄瑠璃、俳句、文学や浮世絵・錦絵など独自の発展をとげるのである。この時代数学や天文学が世界より数段遅れていたかといえば、そうでない。ただ、科学的なもの、産業的なものが鎖国の影響で著しく遅れていたのである。もし、開国と明治維新がなかったら、日本は欧米の植民地になっていたかもしれないが、維新後の政府は産業ばかりか文化まで輸入し、急激な近代化を図った。
芸術分野に限れば、1886年(明治19年)に文部官僚であった岡倉天心とフェノロサの二人が美術教育全般に関わる欧米調査旅行を行ない、その報告に基づいて、翌年、日本で最初の美術教育機関である東京美術学校が創設された。
当初は文人画を除く伝統的日本美術の保護を目的としていた。その後、日本画・西洋画・彫刻、金工・鋳造・漆工の6科が生れ、建築科が設置された経緯を持つ。やがて西洋画隆盛の勢いが増して、岡倉校長の退任騒動となり日本美術院が結成される訳だが、そうした潮流が、1907年フランスのサロンを模した国による美術展覧会(文部省美術展覧会―文展)を生む。文展の設立には、先行して活動していた白馬会など、諸美術団体を国家主導のもとに統合する意図があった。日展の前身は官展であり、もともと官の管理のもとに展覧会が運営されてきたが、戦後の自由主義にあって官外の法人化がなされても根幹は少しも変わっていない。何故そうなるのか。国と人と文化、難題だ。 続く
全日本美術『今月の課題』の
1996~2005年を単行本に
全日本美術編集主幹 松原清 著
A5版 272頁 定価2000円